【小宮 孝泰(こみや たかやす、1956年3月11日生 )】
俳優、お笑いタレント
小田原市国府津出身。
神奈川県立小田原高等学校を経て、1979年に明治大学卒業。高校では落語研究会を創部。明治大学でも落語研究会に所属。三宅裕司、立川志の輔、立川談之助らの先輩や渡辺正行、立川談幸の同期らと落語を学び、この経験は2002年にゲスト主役で出演したテレビドラマ『相棒』(Season 1 第3話)での落語家役に活かされ、手紙無筆を披露した
落語研究会と並行して、1976年に劇団テアトル・エコー養成所に入所し、1978年に研究生となるも、同年に退団。明治大学で同級生だった渡辺正行の誘いで養成所一級上のラサール石井と3人で、1979年に渋谷道頓堀劇場でお笑いトリオのコント赤信号を結成する
声優としても、テアトル・エコー養成所時代に内部の声優試験に合格したことから『宇宙戦艦ヤマト』シリーズや『新・エースをねらえ!』などに出演し[3]、 2000年からはアニメ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の擬宝珠夏春都役を演じた(同作の舞台版でも同役を演じた)。
1991 年にはM.C.ハマーの物真似の「MCコミヤ」としてCDリリース。詳細は#MC コミヤ。
1984年の赤信号劇団の旗揚げからは、タレント活動とともに演劇活動に力を入れ、1990年代以降はコント赤信号やお笑いタレントの活動よりも、舞台での活躍がめざましく、独り舞台、英国留学、舞台プロデュース、英語劇に精力的である。2004年には文化庁文化交流使として、ロンドンに演劇留学し、ITI国際演劇協会の会員にもなっている。
2004年には熱海五郎一座のもととなる伊東四朗一座の旗揚げに参画した。コント赤信号としての活動がない現在でも、渡辺やラサールと共演する舞台劇も少なくない。
(以上Wikipediaより)
小田原高校落語研究会の創始者。
小田原での公演は、2000年6月10日、11日星屑の会「星屑の町〜長崎慕情篇〜」、2010年6月20日小宮孝泰・渡辺哲プロデュース/T.K.JUMP「ドレッサー」に引き続き3回目となる。
2011年11月22日小田原ふるさと大使に就任。
【鄭 義信(チョン・ウィシン 1957年7 月11日生 )】
劇作家、脚本家、演出家。兵庫県姫路市出身。
姫路市立飾磨高等学校を経て同志社大学文学部中退後、横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)美術科卒業。松竹で美術助手を勤めた後、1987年劇団「新宿梁山泊」を旗揚げ、座付き作家となる。94年、『ザ・寺山』で岸田國士戯曲賞受賞。1995年新宿梁山泊退団。映画の脚本を担当するようになる。
俳優として活動することもある。
『月はどっちに出ている』第67回(1993年度)キネマ旬報ベスト・テン脚本賞、『ザ・寺山』第38回(1994年度)岸田國士戯曲賞を受賞している。その他『愛を乞うひと』、『血と骨』『焼肉ドラゴン』などの脚本を手掛けている。
(以上Wikipediaより)
【朝鮮鉄道】
正式名は朝鮮総督府鉄道。日本が朝鮮半島に敷いた鉄道。1905 年に釜山からソウル、1906 年には延長してピョンヤンを経て新儀州の国境まで開通した。
以後も半島各地に路線は拡大し、主要幹線は国際標準軌(広軌。ちなみに日本は新幹線を除いて狭軌が使用されている)の線路で満州まで繋がっていた。
戦前に釜山から奉天まで走った急行列車には「のぞみ」や「ひかり」という名前がつけられていた。現在もその鉄道の線路は使われており、特に北朝鮮では当時のままの路線が多いという。
ただし38 度線で分断された現在は、南北を一気に走りぬけることは出来ない。
(以上「線路は続くよどこまでも」パンプレットより)
【小田原市民会館】
大ホールは昭和37年、公演のある小ホールは昭和40年に建設されています。
レトロな建物ですが、昨年3か月かけて耐震補強工事を完了していますのでご安心ください。
お正月の大学対抗駅伝で「小田原市民会館前」では、必ずといっていいほど中継があります。
小田原の市街地に入って、国道1号線がL字型に曲がるところ、横断歩道の上に応援の人がずずなりにいるところです。
周辺市町村の中では、いち早く設置されたホールで、小田原の文化の発信地として様々な公演がなされてきましたが、
老朽化に伴い、新ホールの建設の検討が進めれらているところです。