2005
○2月、タイの最高峰
2月のチェンマイは、長い乾季も終わり間近かでいささか埃っぽいもけれど、ブーゲンビリヤ(ファンファ)をはじめ、熱帯花木の代表ジャカランダ(スリトラン)も咲き誇る(click here)なか連日快晴で、日中30℃を越すとはいえ朝晩のかなりの肌寒さが心地よい、快適な陽気なのでありました。
街はまだ覚めやらぬ払暁の、未だ輝きの蘇らない影絵のような太陽の薄明かりで、えんじ色の薄絹で包んだような人気のないチーク並木の街路をターメリック色の衣をまとった若い僧侶がひとり托鉢する後姿、そしてそのうしろを横切る一匹の放れ犬の画題は「静寂」。
到着当日は、チェンマイ名物のフラワーフェスティヴァル最終日にかろうじて間に合って、沢山の人出に混じって花車(click here)をバックに記念写真を撮る民族衣装の女性姿(click here)なども、物珍しく目に留まったのではありました。
連日のゴルフ浸り(click here) の旅程のなかで、一日、タイの最高峰ドイ・インタノン(2599m)とその周辺の自然と少数山岳民族の風俗を訪ねるトレッキングに出かけた仲間達は、いかにも爽やかな顔つきではありましたよ。
ゴルフのプレー後、ドイ・ステープのお寺(click here)に行って、偉いお坊さんにお払いの水をかけてもらおうと、普段したこともない”仏法僧”とやらの参拝を、恭しくしているうちに件のお坊さんはさっさと僧坊に帰ってしまって、水の一滴もかけてもらえなかったといった大笑いの一幕も・・・
ところで、いささか端境期ながらも様々な熱帯の果物を賞味できましたが、なかでも昨今食品科学者らが注目するマ・カハーム・ポウムは、咀嚼中は未熟なスモモのような渋酸味なのに、飲み込んでしばらくすると口の中に甘味が広がるという、なかなか得がたい珍奇な体験もできました。
今回、恒例のチャリティー(click here)に赴いたHIV感染孤児養護施設の"Ban Rom Sai"では、お昼寝から覚めた子供たちと親しく一緒に写真に納まることができたのも良い想い出となったのではありました。
さてさて、いやマッサージに連れて行けの、コーラじゃなくてお茶が欲しいのと、何かと注文の多い年寄り達に、不平も言わず心のこもった世話をしてくれた現地通訳ガイドの文和人くん(左端/Photo:Mr.H.Matsuo)(click here)には、心から
○4・5月、バセンジーご来庵
桜の季節ともなると、当サイトのメインテーマであるバセンジー大好き人間たちが、自慢の愛バセンジーを伴って、近くの独立法人の研究施設を借り受けて、楽しくもやっぱり楽しい研究?交流会を催すのがここ数年の常(2003-3月)、(2004-3月)ではありました。
ところが、今年は施設の都合で開催ができなくなったことから、何頭かのバセンジーたちが、4月・5月と当庵のバセンジー夫妻(Ji-ji♂とBa-ba♀)を訪ねてご来庵。
幸い、天気にもそこそこ恵まれて、庭先での和気藹々のブランチパーティーとあいなったのではありました。
4月は、東京近郊のヤムくん・マオくんにシモンくん,わざわざ神奈川からルルタロウくん、そして5月は、な・なんと、はるばる北海道からセーヤくんにアルカスくんと云った次第。
(5月は、生憎夫妻は揃って入院中とあって、おもてなしできませんでしたが・・・)
バセンジーの馬鹿親が二人以上集まれば、そこは自ずと愛息にまつわる苦労話や自慢話に花が咲いて、お土産の珍味((click here)に舌鼓を打つ庵主たちを尻目に、当のバセンジーたちはあきれて不貞寝や黄昏(”たそがれ”と読む)るといった”おそまつの一席”なのではありましたよ。
○5月、春まだきの霧が峰
いつもの年に比べてひと月程も遅い、ことしの季節の移ろいは、萌黄に輝いているはずの信州霧が峰高原を、まだ色付けの済まない水彩画のように、くすんだ灰色の空間に閉じ込めていて、車山(click here)の肩から望んだクヌルプヒュッテも、薄もやにけむる木の間越しにわずかにレンガ色の屋根を覗かせていたのではありました。(click here)
今回の山旅は、大学時代の山のクラブの顧問教官だったK.A.先生(”山男の唄/坊がつる賛歌”の作詞者)が亡くなって10年忌となる28日、ご遺族(click here)のお招きで、先生が考古学研究の現地拠点としてお気に入りだった、ゆかりのクヌルプヒュッテに集った昔の山仲間たち(click here)と、一夜、昔を偲んだセンチメンタルジャーニーだったのでありました。
○11月、OB・G会50周年記念パーティー
大学時代に学問をそっちのけにして、専ら活動していた山のクラブが今年創設50周年を迎え、その記念パーティーが某日、代々木のオリンピック記念青少年総合センターで開催されたのでありました。
このクラブは、徒歩旅行部と称し、前項のK.A先生を初代の顧問として発足したもので、何を隠そう当庵も及ばずながら4期生の、今では古参のOBの一人としてこれに出席したのではありました。
卒後46年ともなると、前後数年を除けば概ね見たこともない、300人余りの人々の集団ではありながら、それが不思議なことに、いかにも知ったような顔をして挨拶が交わせるといった和やかな集まりなのは、「同じ釜の飯」なんぞという言い古された言葉で表わされる関係を通り越して、えもいわれぬ、かつて同じ志をもって汗を流した仲間の、一言ではどうにも言い表わしようもない近親感を醸し出していたのではありました。
当サイト(2000,2004)にも掲載の、2次に亘るヒマラヤ登山旅行を共にした仲間と、久しぶりに会って旧交を暖めることができたのも嬉しいひと時ではありましたよ。