7月号
1.「不良の音楽」ロック
 先月号では、定時制高校に異動して2年目でようやくロック音楽を教材に取り入れる決意を固めたことを述べた。それまでの私はロックというものを「不良の音楽」と思いこんでいてまともに聞いたことがなかった。The Beatles:Yesterday はラジオでよく流れていて「なかなかきれいな曲」だと思っていたが、知っていたのはそれぐらいだといってよいだろう。しかしそれも就職してからのことであって大学在学中はロック音楽というものの存在を全く知らなかった。
 かといっでフォーク音楽をよく知っていたかというとそうでもない。大学在学中に教養学科イギリス科の女子学生で Joan Baez にあこがれている同学年生がいたが、当時の私は公民権運動やベトナム反戦運動で大学の若者の先頭に立っていた美声・美形の持ち主すら全く知らない田舎学生だった。フォークの源流がWoody Guthrieにあること、それを引き継いだのがPete seegerであること、さらにそれをフォーク・ロックへと転換させたのがBob Dylan であることなどは、ロックを教材にするためにいろいろ調べているうちに蓄えた知識にすぎない。
 こんな私がなぜ教材としてロックを選んだかというと、それが「不良の音楽」だという私の偏見からである。それが「不良の音楽」なのであれば定時制高校のように昼の学校を退学させられてくる生徒が多い高校では、逆に生徒の興味を意きつける教材になるのではないかと考えたわけである。教材として使おうと思って、いざいろいろ調べてみると、ロックにも素晴らしい曲がいっぱいあること、社会の不正や人生の深みをうたったもので内容的にも優れたものが少なくないことなどを発見したが、それはずっとあとのことである。とにかく最初の動機は「不良の音楽」という私の偏見であった。
 教科書が教材として役に立たないのであれば中学校の復習教材から始めてもよかったわけであるが、私は敢えてそうせずにロックを選んだ。というのは彼らがいくら英語が分からないからといって中学校の教科書や復習教材をそのまま使うのでは彼らのプライドを傷つけ、ますますやる気をなくすと思ったからである。「さすが高校では中学校と違った新しいことをやる」と思わせて、実は中学校の復習もそこに必ず含まれているというように授業を仕組みたかったのである。
 たとえアルファベットの文字が定着していないからといって、中学校の時と同じように、もう一度アルファベットの文字をノートに何度も視写させられるのでは、学習意欲は半減する。ところが定期考査の試験ではなく、歌の視写・暗唱・暗写を授業に組み込み、この日頃の視写・暗唱・暗写に大きな点数を配分しておけば、生徒の学習意欲は全く違ってくる。なぜなら彼らは定期考査では点数がとれないものと初めから決めてかかっているからである。
 しかもこのように平常点の比重を高くしておけば、無味乾燥な歌詞の視写も暗唱・暗写のための予備練習となるから生徒には無駄な苦役とは感じられなくなる。例えば「1回の視写に1点」というように視写にも平常点を与えておけば、もっと生徒の頑張りが出てくる。生徒は「そんなら100回写せば100点くれるんか?」といって頑張り始めるからである(もっとも彼らにそれをやり遂げるだけの「集中力」「持続力」があれば、とうの昔に「低学力」を克服しているはずなのだが)。
 とにかく、こうして歌詞の視写を通じて生徒はアルファベットの復習を意識せずにすることになる。またこの硯写を通じて「見えない学力」すなわち「集中力」「持続力」「計画力」も自然に身につける。なぜなら暗唱・暗写のテスト日が決まっているから、当然それまでに目標の視写回数も達成しなければならないからである。他方、文字が読めないからといって機械的にアルファベットを何度も視写させたとすれば、学習意欲を減退する要因にはなっても、絶対に増大させることにはつながらない。先月号で紹介したA氏が次のように述べることになるのは当然だったのである。
 「教科書の内容なんか覚えてない、というのはこの頃特にそう思います。それから、文字でつまずいているから、中学校でつまずいているから、もう 1回しきり直しというのは案外だめですよね。中学のことをさせるととたんに投げる。かつて来た道でつまずいているから、おさらいというのは、まず拒絶するんですね」
 しかし「しきり直し」そのものが悪いのではなく、「しきり直し」のやり方が闇遭っているのである。これは文法についても同じである。中学校と同じ文法項目を同じスタイルで教え直そうとするから授業拒否に会うのである。数学でいえば、2次方程式の解を導く過程を教えるなかで四則演算を教えるのである。なぜなら四則演算なしで方程式の解は得られないからである。私が歌の暗唱暗写のあとで「記号づけプリント」なるものを生徒に配り、それを使って意味をとらせるのも、これと同じ理由である。   


2.「ドレミの歌」の難しさ
 以上のような理由でロックを教材として利用するようになったのであるが、まず最初に困ったのは選曲である。The Beatles:Yesterdayは最初から使いたいと思っていたが、まず私が歌えないのである。この歌をうたえるようにならなければ授業で指導しょうがない。そこで毎日テープを巻き戻しビートルズに合わせて歌うという独学の特訓が始まった。そして結局うたえるようになるために1カ月を要したのであった。
 しかし、いきなりロックといっても、私自身が容易に歌えないのでは生徒にとっても易しい教材であるはずがない。そこでまず小学生にもよく知られている「ドレミの歌」から出発することにした。が、この「ドレミの歌」がそんなに易しくないのである。まず第1にこの歌には園弘正雄のいわゆる「音の化学変化」がいっぱい含まれていて、それが歌うのを難しくしている。この「化学変化」が上手く発音できるようにならないと歌えないのである。
 例えばa drop [of golden sun], a name [I call myself],That(will bring)us[back[to doe]]の斜体部では「ドロッポブ」「ネイマイ」「プリンガス」のように音を上手く「連結」できないと、テープの曲についていけないのである。「ドロップ オブ」「ネイムアイ」「プリング アス」と言っていては絶対にテープのスピードから脱落してしまうからである。これは「脱落」についても同じで、a note[to follow sew]のnoteを「ノウト」とはっきり発音していてはリズムに乗れない。語尾の[t]はその直後にtoがあるから、[t]音同士がぶつかり合って、 最初の[t]が脱落するからである。「脱落」させないとテープに合わせて歌えないのである。
 またこの歌は、意味を取ろうと思っても、そのほとんどが英語の基本構造である「線(丸)線」すなわちSVOになっていないので文法的に非常に難しい。というのは最後のThat willbring us back to doe を除いて、すべて a drop[of golden sun], a name [ I call myself], a needle[pulling thread], a note[to follow sew]のように「後直修飾」になっていて、しかもそれが「前置詞」「関係詞」「不定詞」「勤名詞」と名詞を後ろから修飾する構造が多岐にわたっているからである。
 ご覧の通り、小学校の音楽の授業で使われているような教材「ドレミの歌」ですら、英語の「水源地」「基本構造」である SVO をきちんと掴ませ定着させる教材としては難しすぎるのである。これは小学校の音楽で使われる他の教材「コンドルは飛んでいく」についても同じである。なぜなら、ここでは「仮定法」が多用されているばかりではなく、"Away 1'd rather Sai1 away 1ike a swan that's here and gone."のような関係詞による「後置修飾」や"A man gets tied up to the ground.''のgets tied upのような「受身形」の変形すら含んでいるからである。   


3.「リズムよみ」の発見
 こうして私は3つの対応を迫られることになった。ひとつは若者の心を意きつける歌を探し出して難易の順に並べ替えること、2つ目は文法の説明をいちいちしなくとも意味がとれるプリントを開発すること、3つ目は生徒に英語の歌が歌えるようになる指導技術を開発することである。歌を難易度順に並べるといっても、それは文法的難易度であってはならなかった。なぜならいくら易しくても内容が小学生的では決して高校生は歌いたいと思うようにならないからである。
「ドレミの歌」もそれだけを取ってみれば実にたわいもない歌かもしれないが、映画:The Sound of Musicの中では全く違った陰影を帯びる。というのはあの映画は「映像や歌の美しさ」だけでなく、観る力がある人には「教育とはいかにあるべきか」を考えさせる。あるいはもっと深く、その背後に込められた「ナチスに対する抵抗」を読みとる若者もいるかも知れない。したがってこの「ドレミの歌」はこの映画と併用することによって大学の教材としても十分に使えるのである。事実、岐阜大学の私の授業で学生たちは映画に感動しつつ、「ドレミの歌」をあの映画のように、班内で工夫して班毎に多様な振り付けで歌い分けてくれたのである。
 では若者の心を薫きつける歌を選曲し、リズムの難易で並べ分けていったとすれば、難しい内容の読みとりをどうすればよいのか。このために工夫されたのが私のいわゆる「記号づけプリント」であった。このプリントでは英文に3種類の記号すなわち「丸」「四角」「括弧」が付いていて、それに対応する記号の空欄に意味を書き込んでいくだけで意味がとれるように工夫されている。授業中に文法的説明をしなくてもヒント欄を見ながらこのプリントを穴埋めすれば意味がとれるようになっているのである。定時制高校における私の体験では、板書で説明しようとするとー斉に騒ぎ出す彼らが、このプリントだけは黙々と取り組むのであった。
 さて最後の「歌の指導」であるが、このヒントになったのが楳垣実『日英比較語学入門』(大修館書店、1961)である。楳垣は「強弱リズム」即ち「文節アクセント」が「英語学習・英語教育のアルファでありオメガである」「この英語の文節アクセントのリズムに乗る練習をしておかなくては、英語が聞いても分からず、話しても通じない悲劇のもとになることを肝に銘じておかなければならない」と述べつつ、自分の授業で学生に次のように指導しているというのである。
 「私は英語音声学の講義の最初に、短い物語を暗記させ、強勢語に特に力を入れて発音させる練習をし、ひと通りできるようになれば、手で教卓をトントンとたたきながら、拍子を取って英語のリズムを飲み込ませるようにしている」「私の音声学の講義を受けたある男子学生が、その後『街の英語塾』 を開いて教卓をたたいて教え、そこの塾生は学校で発音がうまいと先生にほめられ、塾の名声がとみに高まったという。言語形成期を出はずれない中学生の頃から、こんな方法が実行されたらなあ、と私は考えるのだ。"Strike while the iron is hot!"(機を逸するな)」
 そこで私はこの方法を「リズムよみ」と名付け、自分の授業にも取り入れることにした。教卓をたたくとうるさいので私の場合はペンでテキストをたたくことにしているが、この方法で歌の指導を工夫しているうちに次のことが分かってきた。

(1)英語教師でも最初は「リズムよみ」ができない。歌詞にあらかじめ付けられたりズム記号に従ってきちんとリズム打ちできるようになったときはもう歌えるようになったときである。

(2)むしろ難しいのは、歌を聞きながら歌詞に強弱の「リズム記号」を付けることである。最初は何度聞いてもリズムの規則性が見つからない曲も少なくないからである。

(3)難曲と言われるものは英音法の原則すなわち「内容語は強く」を守らず、「機能語」をわざと強く長く歌っている曲である。The sound of silence(Simon & Garfunkel)はその典型曲のひとつである。

 こうしてようやく私の歌の授業は軌道に乗り始めた。しかし同時に、この授業は私の聴く力を飛躍的に伸ばすという副産物をもたらしてくれた。というのは「リズムよみプリント」を作るために私は同じ曲を何十回と聴き直さねばならず、生徒の力にふさわしい曲を1曲選ぶためには同じ作業を少なくとも5〜10曲について繰り返さねばならなかったからである。かって以前の連載で「教育・研究」と「自己研修」が分裂している教師・研究者について述べたことがあったが、少なくとも私の場合は、このようなかたちで授業研究を3することと自任の力量を高めることを統一させてきたつもりである。   


4.音声教育の「水源地」
 さて授業が軌道に乗り始めたとしてもそれをどう理論化するかという仕事が残されていた。ところがどの英語音声学・英語音声指導書をみても単音の記述・単音の指導からしか叙述が始まっていないのである。上記の楳垣(1961)のものを除いては、どの本を読んでも単音からしか叙述が始まっていない。私自身は歌による授業実践から「英語音声の水源地」が「強弱リズム」にあるということは体験的に確信を持ちつつあったが、それを裏づける文献が楳垣(1961)だけというのでは、自分の確信を対外的に主張するにはやや心もとないという気がしていたのである。この点では外国語の文献を読みあさっていても状況はあまり変わらなかった。
 私がようやく「英語音声の水源地」が「強弱リズム」とりわけ「リズムの等時性」にあるということに確信を持つようになったのは Alien, W.Stannard.Living English Speech (London:Longhan,1954)、太田朗「日英語の音体系の比較」『日英語の比較』(現代英語教育講座第7巻、研究社出版、1965)、藤井健三 『現代英語発音の基礎」(研究社出版、1986)の3つの文献に出会ってからである。これらの文献を読んで驚いたのは、はるか昔にAlien(1954)が「単音指導にあまりに多くの時間をかけすぎると生徒は木を見て森を見ないことになる」と主張し、日本でも楳垣(1961)、太田(1965)で同様の主張がされているのに、藤井(1986)が現れるまでに20年以上もの歳月が流れているということであった。
 最近ではようやくリズムが大切だという主張があちこちで聞かれるようになったが、私がこの研究を始めた1982年頃の状況は上記のような現状だったのである。ところが太田(1965)は「なぜ自分がアクセント・グループとリズムなどのいわゆる『かぶせ音素』を最初に取り上げるか」、その記述順序の理由を述べることから自分の論述を出発させているし、また藤井(1986)は英語の「強さアクセント」は日本話とはあまりに違った発音習慣であるが、「しかしこれは英語発音を支配する根本原理であるから、英語発音へのアプローチは、発音を技術として身につける目的であれ、学問として研究する目的であれ、英語アクセントのありようをよく知ることがまず何よりも大切なのである」ときっぱりと言い切って私に今後の研究への確固とした自信を与えてくれたのである。
 その後の私は、歌の授業実践と並行しつつ、次のような課題に研究の焦点を据えることになった。それは私が岐阜大学に異動したあと現在に至るまで続いている。

(1)英語の歌が英語教育の音声教材として使われている実践・研究には欧米を含めてどのようなものがあるか。

(2)「リズムの等時性」が文レベルの英語発音だけでなく、「句レベル」や「単語レベル」の発音にどのような影響を与えているか。

(3)最初からりズミカルになるように作詞されている英語の歌(韻文)は別として、散文の場合の「リズムよみ」はどのように指導すればよいか。

(4)散文の「リズムよみ」が習得されたあとは、それをどのように会話へと発展させていくか。そのためにはどのような授業形態が必要になるか。

 これらの研究成果について詳しく紹介しているゆとりがここにはないので、拙著『ロックで学ぶ英語のリズム』『チャップリン「独裁者」の英音法』(あすなろ社、1996)[三友社出版発売]などを参照していただければ幸いである。
 ただしこれらの実践・研究を通して新しく気づいたことがあるので、それを2つだけ記しておきたいと思う。それは「音声教育の任務は単語のひとつひとつが切れて聞こえるようにすることに尽きる」「聴解力は直読直解の力を伸ばし、コンテント・スキーマを拡大することと並行しない限り、それ以上の向上は期待できない」というものである。以下、具体的に説明する。   


5.音声教育の「到達目標」
 大学院を卒業した翌年(1985)、私はGeorgetown University(Washington D.C.)で開かれたTESOL大会での研究発表を申し込んだ。"Reading andWriting through Contrastive Study of Expository Prose'' がそのテーマで、大学院の修士論文を簡潔にまとめて発表したいと思っていたのである。幸いにもアメリカから発表を許可する旨の通知が届いた。大会会場で驚いたことは3回目の申し込み、4回目の申し込みでやっと発表許可をもらった人が少なくないということであった。そういう意味では私は全くの幸運だったということになるが、喜んでばかりもいられない深刻な事情が私にはあった。
 というのは論文発表は、英語でも"Read a Paper!と言われるように、単に自分の書いてきた小論を配布し読み上げれば済むが、問題はそのあとである。つまらない論文はあとの質疑応答で何の反応もないので簡単であるが、面白い論文にはー斉に質問や意見の挙手がある。何の反応もない発表はあとが楽といえばその通りであるが、それは論文がつまらなかったということであるし、他方、挙手が多いとき自分に相手の質問や意見が理解できるかという不安があった。どっちに転んでも良いことはない。だが、とにかく私にとっては後者の不安の方が強かったのである。
 発表当日は不安が的中した。私の発表が終わった途端にー斉に多くの手が上がった。制限時間が終わってもまだ質問したいという人が私のまわりに集まって来るくらいであった。困ったのは質問時間内の最後に発言した人の質問・意見・主張の趣旨が全くつかめないことであった。因って立ち往生していると見かねて隣の人が質問の意味をもうー度、私に分かるように言いかえてくれてやっとことなきを得た。このときの私は相手の質問が、中国語かスペイン語のように単語の切れ目がどこにあるか全く分からず、全てひとつながりの音の連続にしか聞こえなかったのである。
 もうーつの例は私がCalifornia State University,Hayward で日本語の非常勤講師として教えていたときのことである。私は日本語の授業のかたわらキング牧師の有名な演説:I Have a Dream について研究していた。その研究の過程で、この有名な演説に語・句・段落レベルで多くの異本があることを発見した。さらに驚いたのはスピーチ・コミュニケーンョンの教科書で必ずこの演説が典型教材として採用されているにもかかわらず、キング演説のどこを「序論」とするか、どこを「結論」とするのかという構成についても教科書によってバラバラだったことである[この研究成果をまとめたものが拙著『キングで広がる英語の世界』(あすなろ社、1996)である]。
 そこで自分の疑問を解決したいと思い、スピーチ・コミュニケーンョン学部の教授の扉をたたいた。主任教授には断られたが、マーフィ教授は快く私の相手を引き受けてくれた。私が彼女の研究室を訪ねたときは私が日本語を教え始めて半年以上も経っていたのに、私は相変わらず外国語学部の秘書や教えている日本語教室の学生の言っていることがよく分からないことが多く、苦しんでいた。やはり単語の切れ目が聴解できず、ひとつながりの音としか聞こえないことが続いていたのである。ところが彼女と論争を始めると不思議なことに私は1時間でも2時間でも論争を続けることができたのである。   


6.「聴く」と「読む」の統一
 これらの経験から得られた結論が先に述べた次の仮説である。

(1)音声教育の任務は単語のひとつひとつが切れて聞こえるようにすることに尽きる。そのためには「リズムよみ」が最適である。つまり「聴解」のために必要なのは「聴解訓練」ではなく、「音読訓練」なのである。なぜそうなるかはここで説明しているゆとりはないが、とにかくここにも弁証法「矛盾の相互浸透」「矛盾の統一」の法則がある。

(2)同時に聴解力は直読直解の力を伸ばすことと並行しない限り、それ以上の向上は期待できない。なぜなら「単語のひとつひとつが切れて聞こえる」ということは、文字として読むのと同じ状態で音声を把握できるようになったということである。とすれば、あと必要なのは、文字と同じ状態に固定された音声を「心の眼」で直読直解する力だけだからである。

(3)しかし「リズムよみ」が全てを解決するわけではない。というのは自分の知らない世界のことが話題になっているときは、いくら注意深く聞いても分からないことは分からないからである。逆に、あらかじめ読んで知っていることが話題になっていれば、少々の知らない単語があっても理解可能である。私がマーフィ教授と論争できたのに外国語学部の秘書や学生の言うことが理解できないー因がここにあった。

 だとすれば「会話教育」が英語教育の全てを解決することは初めから不可能なのである。「読み」ばかりやっているから現在の英語教育は間違っているといわんばかりの風潮が教師にも生徒にも広まっているが、これが誤りであることは以上の考察からも明らかであろう。だとすれば「直読直解をどのように指導したらよいか」「読むとはー体どういうことをすることなのか」「読みを通じて世界を広げるためにはどんな教材が望ましいのか」がもっともっと研究されねばならない。ところが音声一辺倒の対極にあるのが「バラグラフ.リーディング」だけで、その隙間を埋めるものが何もないというのが現状である。
 つまり「直読直解が目指されなければならない」という主張がなされると、いきなり「バラグラフ・リーディング」ばかり強調されるようになっているが、これは英会話強調と同じく、生徒の現状を見ない踏み外しである。なぜなら関係詞や従位接続詞を持つ文を英語の語順に逆らって「訳しあげる」読み方をしている生徒に「バラグラフ・リーディングをしなさい」といくら言ってみても、生徒は文レベルでの直読直解ができずにあえいでいるからである。そして文レベルの直読直解ができるようになったら、次に問題になるのが文と文をつなぐ論理的接続語に注目しながら、文章を読みとっていく作業である。
 ところが Halliday & Hasan(1976)が ConJunctionと呼び、Mackay & Mountford, Reading for Information in Readingin a Second Language(Newbury House,1979)がDiscourse Markersと名付けた「論理的接続語を、どう読みや書くことに生かすかを研究することなく、いきなり「バラグラフ・リーディング」や「バラグラフ.ライティンゲ」を英語教育に直輸入しようとしているのが現在の日本の現状ではないのだろうか。「読むとはどういうことか」「どうすれば書けるようになるのか」を日本語ですらきちんと教育されていない生徒を相手に、いきなり英語で「バラグラフ・リーディング」「パラグラフ・ライティング」を教えることの愚をもうー度考えてみるべきなのである。
 この問題意識で書かれたものが私の修士論文l984)であり、TESOL大会での発表(1985)であった。さらに、その考察のー部は「英語にとって学力とは何か』第1-2章(三友社出版、1986)というかたちで公にされてもいる。これらに関しては最近、『英文読解のストラテジー』(天満美智子、大修館書店 、1989)や『英語のニューリーディング』(谷口賢一郎、大修館書店、1992)の労作が出されたが、しかしそれらとて大西忠治や西郷竹彦などがこつここ現場で積み重ねてきた国語教育の成果を全く無視して、外から直輸入した理論を日本の英語教育に無理やり接ぎ木しているように私には見えた。これでは国語教育でつちかわれた「読みの力」「書く力」を英語教育に生かしようがないのではないか。これが率直な私の感想であった。
 したがって現在続いている音声研究がー段落したら本格的に「読み」「書き」の研究にー刻も早く着手したいと考えている。なぜなら大学院の修士論文以来、本当に私がやりたいと思っていたのは実はこの研究だったからである。それは、大西忠治『説明文の読み方指導』『文学作品の読み方指導』(明治図書、1981・1988)、西郷竹彦『作文の指導』(明治図書、1983)、『文学の読み方・教え方』『説明文の指導』(部落問題研究所、1973・1981)などの仕事を引き継ぎつつ、それをテキスト・グラマーや記号論などの研究成果と合流統一させる仕事である。これらの仕事の完成はいつのことになるか分からないが、とにかく私の到達目標である。   


7.「ことばの力」を「生きる力」に
 ところで上記の仕事をするに当たって私の思考の根底にいつも横たわっていたもう1冊の本がある。それは Hayakawa,S.I.Language in Thoughtand Action (3rd ed.)New York:Harcourt Brace Jovanovich,1972.[邦訳『思考と行動における言語』岩波書店、1985]である。
 この本はナチス・ドイツが国民を煽動する技術として「言葉」というものをいかに巧みに使ったかを想起しつつ、私たちが2度とこのような運命に巻き込まれないようにするためには、言葉というものにいかに対処しなければならないかを、豊富な例を使って分かりやすく且つ詳細に論じたものである。テレビ・新聞などのマスコミが、巨大な力で私たちを押し流す可能性を、今日、ナチスの時代以上に持っているとすれば、それらに対して「だまされない眼」を鍛える武器として、この本はいまだに古典の位置を占めていると思う。
 またこの本を通じて教師は生徒に対していつでも抽象を「具体例」 で説明する能力、具体を「抽象的概念」でまとめてみせる能力(Hayakawaのいわゆる「抽象のハシゴ」を自由に昇り降りできる力)が必要であることを納得させられるはずである。なぜなら教師(特に大学教師)はともすると下記の a. またはc. に陥りがちだからである。しかし教師が目指すべきなのはd.なのである。

a.易しいことを難しく言う
b.易しいことを易しく言う
c.難しいことを難しく言う
d.難しいことを易しく言う

 したがってこの本は「弁証法=二値的考え方」という彼の誤解を別にすれば、「言葉を教えること」を仕事にしている教師には是非とも読んで欲しい1冊である。私の教育・研究の根底にいつもこの本が存在していたことを改めて確認しつつ、「私の英語教育研究論」の連載を閉じたい。(完)
(てらしま・たかよし / 岐阜大学教授)

「詳細な研究過程」にもどる