5月号

1.英文法における弁証法

 先月号では河田勲実践「100ページ・ノート」に触発されて、三浦つとむの言語学・文法論をイメージに描きながら、自分の「200ページ・ノート」を蓄積し続けたことを述べた。他方、授業でも「200ページ・ノート」で書き留めたことをもうー度「予習プリント」というかたちで整理し直して生徒に配り続けた。いま手元にある製本したプリントをみると1976年度版は1号のSentenceに始まり93号のConjunctionで終わっている。
 さらにこの作業は教科通信「英文法通信」というかたちで継続された。「予習プリント」では英文を単なる問いのかたちで羅列したに過ぎなかったが、「英文法通信」では自分の考察・見解を文章化して述べるというかたちをとった。この「英文法通信」はやはり手元の製本された資料をみると1980年版で年間36号を数えた。月2回の発行というペースである。このときリーディングの授業では「Reader Journal」という教科通信を同時に発行し、これは最終号が43号になっているから、この年は毎週何らかの教科通信を発行していたことになる。
 この教科通信には英文法・英文の読み方についての自分の発見だけでなく、「何のために学ぶのか」「学ぶとは何をすることなのか」についての自分の見解や班競争の結果も紙面に載せた。教科通信を単に英語という知識を生徒に詰め込む道具にしたくなかったからである。それはともかく、この作業を続けていくうちに次の2つの発見があった。
 (1)前置詞の複雑な用法も各々の根源的な意味に立ち戻って考えれば丸暗記する必要はない。たとえば on は「接触」が原義であり、あとはメタファーなどによるその応用・発展に過ぎない。
 (2)名詞と冠詞の関係および名詞の可算・不可算性についても、どの名詞もC/Uの相互移行が可能であること。たとえば不可算名詞とされているwaterもwatersとしても使われる。
 この(2)については弁証法における「矛盾の相互浸透」「対立物の統一」を示す具体例として極めて興味深い事実のように私には思われた。なぜなら基本的には不可算名詞とみられているものが可算名詞としての用法をもち、他方、可算名詞だと思われていたものが不可算としての用法も持つのである。要するに「不可算だけの名詞」も「可算だけの名詞」もないのである。普通名詞はいつでも抽象名詞に移行可能であり、物質名詞は用法によってはいつでも普通名詞に移行するのである。問題はその名詞を人間がどのようなものとして認識しているかだけの違いなのである。
 これは冠詞やsome/anyと名詞の使い分けについても同じである。一般的には固有名詞に不定冠詞a を付けてはいけないとされているが、固有名詞はいつでも普通名詞に転化できるのである。たとえばa Newton は「ニュートンのような人」という意味で立派に存在しうる。また some も一般的には肯定文に用い、疑問文には用いないとされているが、これも間違いである。相手に肯定の答えを期待するときにはsomeを名詞とともに使うことはいっこうに差し支えない。つまりここでも問題は表現対象をどのように認識しているかの問題に過ぎない。
 弁証法的思考は問題を「あれか」「これか」の機械的二分法でつかむのではなく、対象を矛盾の統一として、すなわち「対立物の相互浸透」「対立物」の相互移行 としてみる。したがって名詞の分類、冠詞と名詞の関係も、この弁証法的認識の優位性を示す好例として私には極めて興味深かったし、入試問題・正誤問題という「暗いトンネル」の闇でうろついていた私に出口の明かりを示してくれるものであった。生活指導でも「善の中に悪をみる」「悪の中に善をみる」という思考法が重要であることを述べたが、これと同じ思考法を英文法でも取ればよいと言うことが分かったのである。<この研究成果の一端は拙著『英語にとって授業とは何か』(三友社出版、1989で展開した。>   


 2.Local Errors と Global Errors
 ところで、前述1.の「前置詞の複雑な用法も各各の根源的な意味に立ち戻って考えれば丸暗記する必要はない。たとえばonは『接触』が原義であり、あとはメタファーなどによるその応用・発展に過ぎない」という考え方については最近では研究も進んで政村秀實『図解英語基本語義辞典』(桐原書店、1989)のような本も出ている。が、私が前置詞で苦しんでいるときにこの辞書は存在していなかった。
また George Lakoff & Mark Johnson(1980):Metaphors We Live By[邦訳『レトリックと人生』(大修館書店、1986)]、George Lakoff(1987):Women, Fire, and8Dangerous Things[邦訳『認知意味論』(紀伊國屋書店、1993)]も極めて刺激的な本であり、私の考え方を確信させてくれた本であるが、これも当時の私にはやはり未知のものであった。とはいえ上記の本が前置詞の全てについて統一的な説明をしているわけではない。Lakoff(1987)にしても前置詞overについての詳細な研究がのっているだけなのである。
他方、『図解英語基本語義辞典』は基本的な前置詞については網羅されているが、Lakoff がやっているような認知意味論に基づいた厳密な展開があるわけではない。したがってこの分野はまだまだ未開拓な分野なのである。しかし当時の私には「200ページ・ノート」に書きためられた分析、自分の基本的な見通しが得られただけで大いに満足だった。その上、たまたま手に入れたMamna K.Burt & Carol Kiparsky(1972):The Gorficon[Rowley,MA:Newbury House]が前置詞問題の見通しをさらに広げてくれた。
というのは、この本は英語学習者の犯す誤りをLocal ErrorsとGlobalErrorsに分け、前置詞や冠詞などの Local Errorsが間違っていても話された(書かれた)英文は意志疎通が可能だけれども、語順や文順などのGlobal Errorsが間違っていては全く意味不明の英文になることを具体例を通じて説得的に論じていたからである。ここで「文順」というのは従位接続詞で結ばれた文の順序のことである。考えてみれば、私がホームステイしていたときのアメリカの高校生も、日本人の私が見ても文法的には間違いだらけの英文を書いていた。だとすれば重箱の隅をほじくるような前置詞穴埋め問題は全く意味がないことになる。
こうして前置詞にあまり振り回されなくても、あるいは前置詞の選択問題・正誤問題ができなくても英語教師として指導すべきもっと大きな問題があることに確信を持つことができるようになったのである。実は従位接続詞を文と文を連結させる詞という意味でこれを「連結詞」と名付け、これに四角の記号を付けることによって、英文を単文に分解しながら直読直解していく方法を、既に教科通信「ReaderJournal」で実践し始めていた。これは河田「100ページ・ノート」の接続詞・接続副詞の項をさらに自分独自の方法で改良を加えたものであったが、こうして私の研究は、これ以降、「連結詞」と「文順」に大きく傾斜していくことになった。   


 3.管野富士雄の「授業書」
 ところで先月号に「二つの出会いがあった」と述べた。そのひとつが河田実践との出会いであるが、もうーつは東北地区外国語教育研究サークルで実践研究を積み重ねていた菅野冨士雄氏の「進行形・完了形の指導」である。したがって「文順」「連結詞」の問題に移る前に、彼から何を学び、私の研究がその後どのように発展したのかを述べておかねばならない。
 菱科高原で開かれた日教組自主編成講座に講師として多くの実践家が招かれていた。菅野氏はその講師のー人であった。中学校で George Orwellの短編小説: Shooting EIephantsの読みとりをやっているというのにも驚かされたが、しかし私にとって印象深かったのは何といっても「進行形・完了形の指導」であった。彼はー種の授業書に当たる小冊子を既に作っていて、これをもとに授業をしていると言う。そして、動詞を「瞬間動詞」「移動動詞」「変化動詞」「活動動詞」などに分類しながら、He is dying. がなぜ「死んでいる」ではなく、「死にかけている」になるのかを見事に説明してくれたのである。
 恥ずかしいことに私はそれまで動詞をそのように分類することを知らなかったのである。なおシヨックだったのは彼がこのような分類に基づいて進行形・完了形の意味を中学生に教えているという事実であった。この分類は彼の独創に基づくものではなく、Geoffrey N.Leech(1971):Meaningand EnglishVerb[London:Longman](邦訳『意味と英語動詞』大修館書店、1976)が下敷きになっているとのことであったが、英語学というものをきちんと勉強したことのなかった私には実に大きな衝撃であった。そしてこの後の私の研究対象は、マクロのしベルでは「語順」「文順」「連結詞」、クロのしベルでは動詞を中心とした「時制」「相」「態」に焦点化されていくことになったのである。
 というのは文の心臓部は動詞であり、動詞を教えることは、結局は動詞の意味が要求する「文型」と動詞そのものがつくりだす「時制」「相」「態」を教えることに尽きると私には考えられたからである。さらに「文型」は詰まるところ「語順」の問題に帰着するし、「文順」は従位接続詞を中心とする「連結詞」がどのように文を結合し、複文をつくりだすかという問題に帰着する。また文と文が等位接続詞や接続副詞でつながれて論理的脈絡を形成していく過程も広い意味での「文順」の問題であるが、それをきちんと研究するようになるのは、私が定時制高校に異動し、大学院で勉強するようになってからのことである。   


 4.「複文は単純」で「単文は複雑」
 従位接続詞を中心とする「連結詞」を研究していくうちに、次の3つのことがわかってきた。
 (1) 複文は単に単文が連結詞によって結合されたに過ぎない。したがって連結詞の前でいったん立ち止まりながら意味を取っていけば、長文を直読直解していくことは容易である。問題は生徒にそれをどう分かりやすく説明するかである。
 (2) I think that ...における従位接続詞 that も関係代名詞の that も本来は指示代名詞である。したがって that を「・・・すること」や「・・・するところの」と訳す必要はなく、すべて that の前で立ち止まり「それは・・・」と訳すことによって直読直解に生かすことができる。
 (3) 関係詞 who, when なども本来は疑問詞である。したがってこれらについても、後ろから訳しあげる必要はなく、関係詞の前でいったん立ち止まり、先行詞について「それはどんな人かというと・・・」「それは何時のことかというと・・・」のように訳し下っていけば、すべて直読直解できるようになる。
 以上のことを、さまざまな例文を加えながら、教科通信「Reader Journal」というかたちで生徒に配布し続けた。またこのように「連結詞」を四角で囲みながら直読直解できるようになると、不思議なことに複文が単文よりも易しいことが分かってきた。むしろ難しいのは、四角の記号が付かない分詞構文や「if なし仮定法」の単文であったり、Jespersenのいわゆる「Nexus構造」が文中に埋め込まれた単文であることが明確になってきたのである。要するに「複文は単純」で「単文が複雑」なのである。これも弁証法でいう「対立物の相互浸透」だと言って良いだろう。
 そこで次の研究課題は「難しい単文」をどのように読めば分かりやすくなるかである。手に入る限りの文献を読んでみたが、この点でー番参考になったのが毛利可信『意味論から見た英文法』(大修館書店、1972)であった。というのは、彼はその第2章で自分の大学で実践している「飛ばし読み」「入れ読み」「展開読み」など5種類の読み方を豊富な実例で紹介していたからである。安西徹雄『翻訳英文法』(日本翻訳家養成センター、1982)もおもしろい本であったが、これはあくまで翻訳の日本語を鍛えるためのものであるし、名著と言われる佐々木高政『英文解釈考』(金子書房、1977)もあくまで英語ができる人の英文味読法であるように私には思えた。
 以上のような過程を経て私は「寺島の読み方」と称して「立ち止まり読み」「分配読み」「引きもどし読み」「ネクサス読み」など8通りの読み方を生徒に提示できるようになった。そしてこれらの読みがいっそう容易になるように、英文に3種類の記号(連結詞は「四角」、動詞は「丸」、前置詞句は「角括弧」)をつけるように生徒に勧めた。連載2回目で紹介したように私が授業で受け持っていたクラスは決してエリートクラスではなかったが、この方法を教えるようになってから、受験の長文を読むのが楽になったという声を多く聞くようになった。金沢大学に進学した卒業生から感謝の手紙をもらったこともあった。   


 5.学生は「研究用モルモット」か
 ところで上記の方法を採るようになってー番得をしたのは、実は生徒ではなく自分だった。というのは、私自身がこの記号を付けで読むようになってから、英文を読むのが苦痛ではなくなり、読みのスピードも驚くほど速くなったからである。英語教師によく見かけるのは「自分の英語力を付けるため」と称して英会話学校に通ったり、夏休みにどこか外国の大学の夏期集中講座に参加するというスタイルである。しかし教師自身が会話学校や集申講座に出かけなけなれば力がつかないというのであれば、授業を通じて生徒が力をつけていくことなどあり得るはずがないのではないか。
 そうではなく、生徒のために授業研究を積み重ねることが同時に教師の力量をつけることに結びつく研究方法を考えるべきだし、その方がー石二鳥なのではないか。もちろん教師が教室の外で自分の力量を磨く機会を持つことは否定されるべきではなく、むしろ奨励されるべきである。しかし何度も言うように授業研究が同時に自分の力量をつけるために役立つ道筋こそ、まず第一に探求されるべきではないかと言いたいだけなのである。次回で紹介するように、少なくとも私は音声指導の研究においても同じ道筋を通ってきたと思っている。
 同じようなことは英語教育学の研究者についても言えることではないか。授業の学生は単なる被験者であってはならないのである。ところが学会の発表を見ていると、自分の授業の学生を「実験群」と「統制群」に分け、学会発表のための被験者として扱っている報告が少なからず見受けられる。「実験群」で扱う教育方法が学生の英語学力を向上させるのに効果があると自分が仮説的に信じているのであれば、全てのクラスをその方法で教えるべきなのである。学生は単なるモルモットではないのだから、改められるべきなのは「実験群」「統制群」という研究方法・学会発表スタイルだと思うのだがどうだろうか。   

 6.英文の読み方・人間の読み方
 さて私が「連結詞」「文順」に焦点を当てて研究をしているとき定時制高校に異動することになった。結婚した相手の勤務を考えると、どうしても金沢に移住せざるを得ず、異動先としては定時制高校しかなかったからである。校長は何度も「定時制でも良いのか」と念を押したが、私には定時制だからといって拒む理由は何もなかった。むしろ驚いたのは異動した先の生徒達に「なぜわざわざ定時制高校に来たのか」「何か悪いことをして飛ばされたのか」とよく尋ねられたことであった。後で考えると、自分たち自身が昼を退学させられて定時制高校に来ているので、同じ発想でものを考えているのであった。
 定時制高校の2年目で金沢大学教育学部大学院に入学することになった。知り合いの先生から電話があり、「今度大学院ができることになったが、開店休業だと文部省の手前、非常に具合が悪い。幸い寺島さんが定時制高校に異動して、昼が空いているようだから来て貰えないか」と言うのであった。菅野実践で衝撃を受けてからきちんと英語学を勉強したいと思っていた私には、この申し出は渡りに船であった。ところが予想通り(?)大学院開学1年目の学生は私と内部から進学の学生の2名だけという少数ぶりだった。しかもその学生も途中で附属中学校に引き抜かれていったので、結局、英語教育コース第1回の卒業生は私だけだったのである。
 大学院で変形生成文法というものを初めて知った。そして母校の進学校でー人で手探りしながら編み出した「立ち止まり読み」「ネクサス読み」が基本的には変形生成文法と考え方が同じであることを知って内心驚喜した。というのは変形生成文法の考え方はどんな複雑な文も変形規則を使って産出することができるという前提の上に立ち、その変形規則を探求する学問だったからである。これは私のやってきた読みの方向、すなわち「どんな複文も連結詞による単文の結合によってできている。だから直読直解のためにはもとの単文に引き戻しながら読めばよい」という考え方と基本的には全く同じだったからである。
 「ネクサス読み」も同じである。なぜなら「ネクサス」は、もともと2つの文であったもののうちー方の文が変形されて他方の文中に埋め込まれた結果できあがったものだからである。したがって「ネクサス読み」というのは、単文の中に複文を読みとる作業、文法的には単文とされているものを「元の2つの単文」に復原する作業なのである。これは複文を元の2つの単文に分解する作業よりもはるかに難しい作業である。なぜなら複文の場合、「連結詞」を四角の記号で囲み、文の切れ目を視覚的に浮き彫りにできさえすれば、あとの作業は簡単であるのにたいして、「ネクサス読み」の場合、一見しただけでは見えないものを見抜く力が必要になるからである。
 したがって英文を読むという作業は「単文の中に複文を読む」「複文の中に単文を読む」という弁証法的思考そのものであるということになる。生活指導で「善の中に悪を読む」「悪の中に善を読む」のと同じである。しかも先に述べたように「単文の中に複文を読む」の方が「複文の中に単文を読む」よりはるかに難しい。すなわち、何度も言うように、「単文は複雑で」「複文が単純」なのである。これは「善の中に悪を読む」よりも「悪の中に善を読む」のが難しいのと似ているかも知れない。   


7.英語「1文型」説
 変形文法が私の考え方と似ているもうーつの点「角括弧」の使い方である。記号としても使い方は全く同じであったが、もっと本質的に親近感を覚えたのはその発想方法である。「人間の頭脳が文を主成するには必ず何らかのルール・法則があるはずで、その法則はなるべく単純な形式で書き記すことが望ましい。また真理は単純で美しい形式を持っているはずである」という考え方は物理学費つ持つー般的考え方であるが、変形文法の創始者Chomskyもこれと同じ考え方をとっているように私には思えた。これは、なるべく丸暗記をしなくてもすむ文法体系を生徒に提供したいという私の考えともー致するものであった。
 古典力学は全てF=m(dv/dt)という微分方程式を解くことに帰着する。だとすれば英文法もそれに匹敵する単純な定式化ができないものであろうか。これがずっと私の心の中にあった考え方である。それを初期の変形生成文法ではS→NP+VPと表現したのであるが、私はそれを次のように記号を使って定式化した。

線  丸  線   四角   線  丸  線

この図式で「線」は「名詞句」、丸は動詞句、最後の「四角」は連結詞である。すなわちどんな英文もその骨格はSVOであり、それが連結詞で結ばれることにより、複文ができるという考えを示している。
 ここで単文の骨格をSVOとしたのは、まず第1に Basic Englishを考案した0gdenが、有名な語彙一覧表に英語の文法・語順としてSVOを与えているだけだからである。普通、英語の文型として教えられるのは5文型であるが、上記の事実は、Basic Englishでは「英語の基本文型として当面教えられるべき文型はこの SVO の1文型だけでよい」としていることを示している。Basic Englishに関心を持つようになったのは、私の主催する研究会の会員で熱心なBasic Englishの信奉者がいたからであるが、勉強してみて驚いたのは、Basic Englishも私と同じ英語1文型説を採っている点であった。
 もうーつ私が英語I文型説をとる根拠は言語類型学(Typology)が英語を SVO言語として分類しているという事実である。言語類型学では世界の言語を分類するのに、S,V,0がどのような語順をとるかで分類している。それによればS,V,0の順列・組み合わせは全部で9通りあるはずなのに、驚いたことに世界に存在する言語は大きく分けるとSVO, SOV,VSOしかないというのである。そして英語はSVO言語として分類されている。だとすれば教育英文法としては当面、SVOを英語の基本型(Basic Word Order)として生徒に与えても良いと考えるようになったのである。   


8.「語順」「文順」を越えて
 大学院でもうーつ勉強して刺激になったのは談話文法(Discourse Analysis)であった。しかし私の当面の関心は文章の読解であったから、会話分析を中心とする談話文法はあまり面白いとは思われず、興和味をひいたのはテクスト・グラマーと呼ばれる文章の分析方法であった。なかでもその頃私が読んで最も面白かったのは M.A.K.Halliday &Ruqaiya Hasan:Cohesion in English [London:Longman,1976]であった。
 というのは「語順」「文順」の研究のあと次にめざすべき研究課題はもっと広い意味での「文順」の研究だと思っていたからである。「連結詞」研究は複文のなかでの「文順」を考察対象として取り上げるものであるが、文章がもっと深く読めるようになるためには(あるいは論理的な文章が書けるようになるためには)文と文を論理的につなぐ言葉の研究がどうしても必要だと考えていたからである。その意味でHalliday&Hasan(1976)はまさに打ってつけの本であった。
 こうして私の修士論文は「文章論理の日英比較」ということになったわけであるが、肝心の定時制の授業はそれとは全く関係ない対応を迫られていた。それについては次号で詳しく展開する。
     (てらしま・たかよし / 岐阜大学教授)

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