<童話と解説> 金太郎


 怪童伝説の一つ。
 気は優しくて、力持ち−−−。
 自然の中でのびのび育った金太郎は、健やかでたくましい男の子の象徴として、五月人形にも取り入れられています。

 金太郎は、坂田金時という実在の人物の幼名で、源頼光(平安時代中期の武将:大江山の酒顛(しゅてん)童子征伐の伝説で有名)の四天王の一人と言われた武士です。
 相模の国、足柄山に住んだ山姥(やまうば)と赤竜との間に生まれたと言われ、全身赤くて肥満し、怪力を有し、熊・鹿・猿などを友とし、常に鉞(まさかり)を担ぎ、腹掛けをかけ、相撲・乗馬を好んだ子供と言われています。
 金時山には、金太郎が母と住んでいたという「宿り石」 、猪の鼻を折って埋めたという「猪鼻神社」があります。

(神奈川地方の昔話)


    
足柄山の金太郎(童話)

 むかしむかし、地蔵堂に四万長者といわれたお金持ちがありました。この長者に一人のむすめさんがいました。この娘さんは大変美しいひとで、そして男にも負けないようなしっかりした娘さんでした。
 そのころ、いまの開成町に坂田氏という、大変勢力の強い侍が住んでいました。この坂田氏に見込まれて、そこにお嫁に行くことになりました。なにしろ、お金持ちの四万長者の娘のことですから、いくつものきれいな長持ちに立派な着物などをいっぱい入れ、そのほか、大変なおみやげなどをたくさん持って、長い長い行列を作ってお嫁入りをしました。

 ところが、その後訳があって、そのお嫁さんは自分の生まれた地蔵堂のお家へ帰らなければならなくなってしまいました。その時に、お嫁さんのおなかには赤ちゃんがいました。そして、地蔵堂に帰って間もなくまるまると太った良い男の子が産まれました。名前を金太郎と付けました。四万長者のお家では、かわいい孫が生まれたわけですから、家中大喜びして大事に大事に育てました。金太郎はとても育ちの良い赤ちゃんで、ぐんぐんとおおきくなりました。目はぱっちりして、色白で、頬は紅を差したように真っ赤で、それはそれは本当にかわいい子でした。小さい時分から人一倍元気がよく、家の前の田圃のかぶと石や、たいこ石にかけあがったり、とびおりたりしてあばれまわって遊びました。
 だんだん大きくなると、近所のお友達を引き連れ、自分で大将になって、あしがら山や金時山の険しい広い山々を自分の庭のようにして、毎日元気に駆けめぐってあばれまわりました。
 こうして元気にお山で体を鍛えているうちに、「足柄山で金時は、熊とお相撲取りました。熊はころりと負けました。」と言われている通り、お山で一番の力持ちの熊さんを投げるような大変な力持ちになってしまいました。

 青年になった金太郎は、名前を金時と改めました。金時は体は大きく、近くの村々でも評判の器量好しで力持ちの立派な若者になりました。
 そのころ、都で一番強かった大将に、源頼光という人がいました。この頼光が東の国の方に用があってきた帰り道に、足柄峠を通ることになりました。大勢の家来を連れて地蔵堂に来ました。地蔵堂を通り過ぎると、峠までの道はいよいよ険しくなります。一休みして元気に峠までということで、茶店でお茶を飲んでいると、そこを通りかかった金時を見て頼光は驚きました。こんな山の中で、このような器量好しの力持ちの若者に会うことのできたのは一体どうしたことだろうか。これは神様にお引きあわせかもしれないと思いました。そして、金時に自分の家来になるように勧めました。
 金時は都一番の大将の家来になれるということで、飛び上がるほど喜んで、早速家来にしてもらいました。
 頼光の家来になって都に上がった金時は、毎日一生懸命勉強して、剣術を習って、ついに頼光の家来の中の四天王の一人に数えられる強い強い大将になりました。

 いまでも男の子が産まれると、この金太郎のように「気は優しくて力持ち」の良い子になるようにということで、五月の男の子の節句には、金太郎のお人形を飾ってお祝いするのです。


解説・・・歴史的背景
  1. 金太郎:
    後の坂田金時は平安中期、藤原道長が「この世をば、わが世とぞ思う」とうたった藤原氏の全盛時代に実在した人物で弓取りとして当時、都に勇名をはせていた源頼光に従う四天王の一人として「今昔物語」にも名を記録している。
    なお、氏名については酒田あるいは公時と書かれることもあるが同一人物である。
  2. 源頼光:
    頼光は鎮守府将軍にもなった源満仲の長男として村上天皇の天歴二年(948年)に生まれた。父が藤原氏と密接な関係を持つことによって出世していったように、彼もまた、道長の栄華とともに出世し、「枕草子」や「源氏物語」で有名な平安朝全盛時代にあの華麗な宮廷をめぐる貴族社会に出入りしていた。
  3. 都の治安と武士:
    しかしなんと言っても頼光は貴族ではなく、受領階級からでた武門の家の子であり、その真価は軍事力にあった。都の治安は乱れており、満仲の邸に強盗が入ったり、道長の邸が賊によって放火されるという事件すら起きるほどであったから、頼光とその一党、すなわち四天王と呼ばれた渡辺綱、碓井貞光、ト部秀武と金太郎こと坂田金時らの武勇が藤原氏ら貴族階級にとって大切で、頼もしい存在として重要視されていた。
    頼光と四天王が大江山の酒呑童子を退治した伝説は、京都近郊の丹波国での話であり、あれ程きらびやかな文化を誇った平安朝の最盛期でさえも一歩宮廷の外にでて、庶民の生活の中にはいると、どうにもならないほどの貧困と治安の乱れが存在していた。
  4. 荘園の発展:
    日本は大化改新によって公地、公民制となった。つまり土地は全て国有であり、民は全て大和朝廷の直接支配下に置かれた。従って朝廷は民に対して平等に成人男子には田2反(990平方メートル)、女子にはその三分の二を貸し与え、地租と言う形で国税を納めることになっていた。しかしこれだと新田開墾の意欲が無く、なかなか新しい田畑ができない。早々にしてこの制度は行き詰まり、改新から百年も経たないうちに私有地が認められるようになった。これが「荘園」である。
  5. 武士の発生:
    平安時代末期には荘園全盛となった。神奈川県下も例外ではなく、例えば、藤沢市の鵜沼一帯を勢力に置いた大庭氏は今も地名となって残っている。
    特に神奈川県を含む関東地方は当時の日本にとって辺境の地であり、彼らは本来は百姓でありながら、私有地や財産を守るために武力を必要とした。これが、武士の発生であり、彼らが実力を付けて、相模武士と呼ばれるようになり、やがて鎌倉幕府成立に至る関東の実力として歴史の表舞台に登場するようになる。
  6. 酒田義家:
    平安中期、今の足柄上群開成町酒田に、有力な豪士で都の貴族の荘園なども管理していた酒田義家と言うものがいた。この地方では名族に一人であったが、一族の勢力が広がるにつれ所領争いから同族間の対立が始まった。
    義家の敵は実の叔父であり、ある日、不用意に家来も連れず外出したところを、この叔父によって殺されてしまった。義家には生まれたばかりの男の子がいた。金太郎である。異変を聞いて金太郎の姥(うば)は、とるものもとりあえず、金太郎だけを背負って箱根山中の金時山に逃げ込んだ。義家の遺児がいたのではいつの日か仇と狙われかねないので、その叔父は八方探したが、見つからなかった。
    こうして金太郎は山奥で熊や兎を遊び相手として育つことになったのである。
  7. 源頼光と金太郎の出会い:
    うばから父義家が殺された事情を細かく教えられて育った金太郎は父より優れた武士になって仇を打ちたいと考え暮らすようになった。折しも、奥州の蝦夷征伐を終えて都に帰る源頼光の一行が、この足柄峠を越えようとさしかかり、彼は志願して、頼光の家来となった。
  8. 雷神寄胎伝説:
    「前太平記」でも金太郎の母は山姥であり、頼光に答えた言葉の中に「一日この嶺にでて寝たりしに、夢中に赤竜来たりて妾に通ず。その時雷鳴おびただしくし、驚きさめぬ。果たしてこの子をはらめり」とあるが、これは雷神寄胎伝説であろう。
    金太郎とまさかりが結びつけられるのは、まさかりは、中国の雷公がまさかりを持っている姿で描かれているのと同様に、雷神の 武具であり、象徴なのであろう。金太郎の母を山姥としたのは、一種の母子神信仰がこの背景にあるからだろう。
  9. 金太郎と熊:
    金太郎とクマの話はどこまで本当なのか?
    金太郎伝説のカギを握る人物がいる。その名は近松門左衛門。
    金太郎は後に源頼光(らいこう)に仕え、坂田公時と名乗るが、彼とクマを結びつけたのが近松。つまり創作なのだ。
    聖徳2(1712)年初演の「嫗山姥(こもちやまうば)」。快童丸(金太郎)が頼光の前で怪力を披露する。洞穴から引きずり出したクマに抱きつく。更にクマのひるむところを取り押さえ、片足をつかんでくるくると二、三間ほり投げ、「ああ、くたびれた。乳が飲みたい、母さま」とのたまう。
    金太郎は一方的にクマを痛めつける。近松の浄瑠璃の中では金太郎の強さ、快童ぶりだけが強調される。金太郎とクマが友好関係を深めるのは、近松以降の人々の、これまた創作である。
    では、なぜ金の字の腹掛けをしていたのか。源頼光と金太郎。腹掛けは雷公(頼光)を守る。と言う江戸時代のしゃれだったに違いない。
    <1995年9月1日毎日新聞夕刊より>

南足柄ホームページへ戻る。 "Kintaro" legend