2000年09月24日
2000年10月15日じゃっかん手直し
内容をかいつまんでご説明します。
香港の章、安宿での挿話です。借りている手狭な部屋で麗儀という女と短い時間を過ごしたときに、占い(らしきもの)をしてもらいます。「弧寒」ということばが書かれます。沢木氏は、ほんらいこのことばが持っている意味と異なるふうに解し、旅行記にもそう書いてしまいます。ところが、読者の指摘を受けて「どうもちがったのではないか」と気づいたようです。
香港の章、黄金宮殿という安宿においての挿話です。
宿に始終出入りしている麗儀という娼婦が、沢木氏が借りている部屋にきます。とくに用事があるわけではなくあそびにきてくれたようだ、と記されます。たがいにことばは通じません。
ボールペンで数字を書くことによる占い(らしきもの)をしてもらっています。麗儀は「有恒心」・「胸襟広大」という文字を書きつけます。
そのあとを引用します。
麗儀はボールペンを持ったまましばらく考えていたが、やがてその横に二つの文字を書き加えた。
孤寒
それを眼にした瞬間、ドキッとした。恐らく、日本にそのような言葉はないが、彼女が表現しようとしたものは明確に伝わってきた。孤寒。その優雅な言い廻しと裏腹の冷えびえとした文字の姿の中に、本当に私の性格とその未来が隠されているのではないかと思えてきた。
<孤寒、か……>
しかし、そんな思いに長く耽っているわけにはいかなかった。麗儀と二人で狭い部屋で黙って顔を突き合わせている状態が、なんとなく気づまりに感じられたのだ。それは彼女も同じらしく、居心地が悪そうに盛んに体を揺すっている。ついに彼女は立ち上がり、ひとこと呟くとそのまま部屋を出て行ってしまった。ハンサム、と聞こえたが、そんな言葉でないことは、彼女の表情の硬さから明らかだった。
『深夜特急 第1巻』,p88-89
『孤寒。その優雅な言い廻しと裏腹の冷えびえとした文字の姿の中に、本当に私の性格とその未来が隠されているのではないかと思えてきた。』
とあることからわかりますように、「孤寒」ということばに多少なりともロマンチックな色合いを持たせています。
1993年に発行された『象が空を』に「弧寒」という一文がおさめられています。上に引用した箇所に関して、読者の手紙を紹介しながら、述べている一文です。
広東語の学究だという読者にもらった手紙を紹介し、「弧寒」には『深夜特急』に書いたようなロマンティックな意味はなく、「吝嗇」を意味することばなのだという、と記しています。
そのあとを引用しておきます。
ケチ!
彼女は別に私の未来を孤独なものになるだろうと言っていたのではなく、単におまえはケチだと言っていたのだという。まったく頓狂な勘違いをしてしまったものである。そしてその時、それまで納得できていた情景が、不意に、まったく異なる意味を持って揺らぎはじめてきた。なぜあの時、彼女は私をケチなどといったのだろう。吝嗇によって金を使わないのではないことはわかっていたはずなのに、なぜ……。
だが、それにしても、「有恒心」と「胸襟広大」と「弧寒」とは、どのように結びつくのだろう。私の性格はいったいどうなっているのだろう。
『象が空を』,p299
『深夜特急』においては、「孤寒」ということばの意味がわからないことを前提にしつつ、多少なりともロマンチックな色合いを持たせています。ところが、読者の指摘によって、広東語では単に「ケチ」という意味であろうことがわかってしまいました。
この文章を書いた時点においては、沢木氏は困惑しているように見受けられます。
この文章の文末の()内には1987年11月付けということが記されています。(『深夜特急』の第1巻は1986年に発行されたことを考えますと)比較的はやい時期に手紙をもらい勘ちがいに気づかされたのでしょう。
文庫本版の28刷(2000年5月12日発行)と単行本版の41刷(1999年07月15日)を書店の店頭で見てみました。以前と変わらず、です。
まちがえてしまったことは、しかたのないことでしょう。
しかし、まちがえてしまったことをそのままにしておくべきワケがあるのかどうかは、疑問におもいます。『まったく頓狂な勘違いをしてしまった』とご自分で書いているにもかかわらず、修正や注を加えないのはなぜなのでしょうか。私にはわかりません。
まちがいや誤解をたださないことはいさぎよい態度の現れだと感じる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まちがいはまちがいです。ささいなこととはいえ、『深夜特急』を読んだ人たちにも、沢木氏がしたのと同様の勘ちがいをさせてしまう可能性があります。
「『弧寒』という文章に書いてある」と説明されても、こまります。『深夜特急』を読んだ人がかならずしも『象が空を』を手にし「弧寒」という文章を読むとはかぎらないからです(もっとも、今この文章を読んでいる方にとっては、直接には自分と関係していないこと(になってしまったよう)ですね。たとえ今までご存じなかったとしても、この文章が知らせる役目を担うことになってしまっていますから)。
ながれが中断してしまうことがあるにしても、みじかく注を入れるなり一言ことわるなりした方が読者に対して親切でいいのではないか、とおもいます。
このことを指摘している本が現に書店の店頭に出回っています。『旅行人傑作選1 世界の果てまで行きたいぜ!』のなかの
水野純「広東語に気をつけろ!」
という一文です(雑誌には1989年2月号に掲載されたもののようです)。
端的に内容をいいますと、沢木氏が「弧寒」の意味を取りちがえているのを読んで爆笑した、というものです。沢木氏の耳に「ハンサム」と聞こえたことばは、沢木氏の推測どおり「助平」という意味であろう、とも述べられています。
私は広東語に疎いです。「弧寒」ということばがどういう意味や用例を持つのか、よく知りません。
以上の文章では、「孤寒」のなかで一読者が指摘していることは的確なものであろうことを仮定しています。
ここで取りあげた挿話は、
沢木 耕太郎『深夜特急 1 香港・マカオ』新潮社 1986年,p87-89
に収録されています。文庫版では、
沢木 耕太郎『深夜特急 1 香港・マカオ』新潮社 1994年,p107-110
です。
「弧寒」は、
沢木 耕太郎『象が空を』文藝春秋社 1993年,p297-299
に収録されています。文庫版では、
沢木 耕太郎『勉強はそれからだ 象が空を3』文藝春秋社 2000年,p99-103
です。
「弧寒」を取りあげているのは、
水野 純「広東語に気をつけろ!」(『旅行人傑作選1 世界の果てまで行きたいぜ!』旅行人 1999年,p152-153)
です。
第1回の『深夜特急』論――開始にあたってを、読まれていない方は、お読みになってください。お願いいたします。