平安時代:藤原道長全盛の世
ルーツは相撲使下毛野(しもつけの)公時か?

藤原道長の『御堂関白日記』の寛仁元年(1017)8月24日の項に、
帥(太宰府の長官)のもとより書を送らる。書を開き見るに曰く。相撲使公時死去の由なり。件の男は随身なり。ただいま両府(左近衛府・右近衛府)の者の中、第一の者なり、日来(ひごろ)かく云々により、憐れむ者多し。
とある。

相撲の選手のスカウトに行った公時の死亡報告がきた。公時18歳は私のボデーガードの番長だが、近衛兵の中で第一の人物なので憐れむ者が多い、という意味です。

この公時関連記事は他の貴族の日記にもあります。『小山町史史料編1』でみても、彼は競馬や弓の名手でもあり道長に信任され若くて出世しています。しかし、公時の名字は酒田や坂田でなく下毛野です。実在のこの公時がルーツでしょう。


『今昔物語集』の公時
 公時死後約100年で成立した『今昔物語集』は、「源ノ頼光ノ朝臣ノ郎等ニテ有ケル、平ノ貞光、平ノ季武、......ノ公時ト云フ兵アリケリ・・・」と、源ノ頼光の家臣であり、「手聞キ魂太ク思量有テ」東国で手柄をたてた公時たちが、賀茂の祭り(葵祭)で牛車に酔って女房たちに笑われた話を載せています。

 ここで、公時だけの姓が失われているのはなぜでしょうか。


『古今著問集』『御伽草紙』「謡曲」の金時公時
1254年成立の『古今著問集』では、「源頼光、鬼童丸を討ち取ること」という項で、使者公時等で登場しますが脇役です。

 室町時代初期に成立した『御伽草紙』では「酒呑天童子」の話でも「・・・貞光、季武、公時、綱、保昌いづれも文武二道のつわものなり・・・」と姓はなく、勇士たちの一員です。

 室町時代前期成立の『謡曲大江山』でも頼光の酒呑童子退治のワキツレ6人グループの一員で、個性を持っていません。『謡曲羅生門』には名前だけでます。  公時の武器も、『古今著問集』で弓矢、『御伽草紙』「謡曲」で剣です。



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