江戸時代:金平浄瑠璃で主人公に

公時は頼光四天王のほかの3人に遅れ、江戸時代になって初めて説話の主人公になり、坂田の姓を持ちます。

 1658年に刊行された古浄瑠璃(あやつり人形劇・・足柄座の人形芝居のルーツ)の台本『宇治の姫切』で副主人公になり、翌年の『四天王武者執行』で、毒酒にやられた四天王の中で金時が生き残って手柄をたてる形で主人公になります。

 これらに続く『金平(きんぴら)誕生記』では、山姥の子、坂田金時と彼が救った大蛇の精の女が産んだ鬼っ子悪太郎が箱根峠で山住(やまずみ)判官を討ち、悪太郎=坂田兵庫頭金平として元服します(『新群書類従第五』)。

 江戸の和泉太夫(後の桜井丹波掾)父子が浄瑠璃を語り、金時・金平の武勇譚を鉄棒で拍子をとり、人形の首を引き抜くスーパーマンあやつり人形活劇にしたものが「きんぴら浄瑠璃」と呼ばれていました。十数年間に250曲も上演され、絵入の台本が広く読まれ、やがて1767年には「金平の夢を見ている枕蚊帳(まくらがや)」と川柳に読まれるほど、幼児にまで知られる事になりました。

 さらに注目されるのは、『清原右大将』で足柄山に逃れ住んだ頼光に鬼女がくわいと=金時・公時を奉ります。

足柄山や相模の国が主舞台となり、彼等の人間像が形象化されてきたのはこの頃と言えます。


団十郎と近松の役割
金時・公時にマサカリやクマを結び付けて、怪童丸を形象化したのが初代市川団十郎と近松門左衛門です。

     1673年、14歳の団十郎は、初舞台の『四天王稚立(おさなだち)』で坂田金時を演じ、大江山の場で斧を手に荒々しい大立ち回りを見せて大成功しました。これが歌舞伎の荒事芸(あらごとげい)の創造でもあったのです。

 管見では、金時によるマサカリの使用は、団十郎が最初です。これが団十郎による全くの創作なのかどうかは断言できませんが、演劇史上の史実でも有ります。しかし、金時・金太郎の武器は、この後も鉄棒・しとみ戸など様々なものが出現します。マサカリに固定するのは200年も後のことになります。

 1712年刊行の『嫗(こもち)山姥』では、切腹した坂田時行の血を浴びた難波の遊女八重桐が山姥となって産んだのが「五、六歳の童。五体の色は朱のごとく。・・・鹿・狼・猪を。引きさきて積み重ね。木の根を枕に臥したる様。誠の鬼の子」怪童丸です。頼光に相撲を見せることになった怪童丸は、荒熊の「片足をつかんでくるくるくる。二三間かっぱと投げ。ああくたびれた乳がのみたい母様と、母が膝にぞもたれける。」など見事に形象化され、怪童金時とクマが結ばれたものです。

これが金太郎噺にクマが登場した最初です。


こどもを守り育てる人形と凧
人々は、鬼神のように強くて怖い金時に、子供の大敵、天然痘・麻疹などの疫病神退散の役を負わせました。
人形に汚れを移して流すことは古くから行われていましたが、埼玉県鴻巣(こうのす)では真っ赤な怪童金時の練物(おがくず)人形を子供に抱かせることで、ほうそう神を追い払うという風習が成立します。
また田沼意次(おきつぐ)の城下町だった静岡県相良(さがら)では、外敵・病魔退散の役割を担っていた剣やき凧に金時・怪童丸を描く事で疫病神を退散し、合わせて男子の出世を願う、誕生祝いの贈物にし、さらに凧合戦へと発展させています。

金時は「まさかりとどてら一つで抱えられ」(1777年)と川柳にあるように、代表的な出世人でありました。鯉のぼりにも子供の健康と出世への願いがこめられていると言われます。


歌麿の浮世絵「金太郎シリーズ」
1778年『柳多留(やなぎだる)』に「金太郎悪く育つと鬼になり」が発表されます。

「金太郎」の初見です。

伝統を重視する歌舞伎・浄瑠璃では、今でも「怪童丸」ですから、この時以前に、庶民の間で「怪童丸」が「金太郎」に生まれ変わっていたのです。

 美人画で有名な初代喜多川歌麿が、1795年からやさしく可愛い金太郎を中心に、美しい母親を配した浮世絵「金太郎シリーズ」を40数点も連作しました。

これによって、「怪童丸」は、動物にまで優しい「金太郎」へと大きくイメージを転換させたことになります。



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