各地にある金時・金太郎の故郷と墓所
  1.  南足柄地蔵堂の生地
     金太郎が四萬長者屋敷で生まれたとする伝説が佐藤家に残っていましたが、記録では、1839年の『新編相模国風土記稿』1ー267に「国界より此方二町許りにして、路傍に坂田公時が金葢石と呼るあり」がもっとも古いです。

     もっとも1779年に江月院の梁山恵棟和尚が『仏勅足揚地蔵菩薩大縁起』を書かれています。(『史談足柄』34)。
    しかし地蔵尊の化身が旅人を食べる山姥の子白色童子を奪って山姥を改心させる話ですから、金太郎話とは言い切れません。

     最近、三保大明神に祭られた足柄の四萬長者伝説が、室町時代に成立していたことを確認できる資料を五点も発見しました。しかし富士浅間伝説であって金太郎も公時も登場しません(「浅間記・駿河大社浅間記」『静岡女子短期大学紀要9号』)。

  2.  小山町竹之下の坂田明神と中島の生地
     1713年刊の『和漢三才図会』に「坂田明神竹ノ下ニ在、祭神坂田公時ノ霊・・・祭神ノ仔細未ツマビラカナズ」とあります。坂田明神は足柄峠になく、宿の午頭天王社とする書もあるが、数社を合併していて「金時」は消えています。

     1820年の『駿河記』に、中島村に坂田屋敷があり公時の子孫の家だったが伊豆へ引き越した、と書かれていました。現在の金時神社拝殿の辺りで、この周りに産湯の七滝、第六天社、金時杉がありました。明治8年この杉を切った山北岸の中村某は翌年発狂したと伝えられています。

  3.  箱根町仙石原の公時石と神社、湯
     1728年の勝俣家文書「申ノ年諸事控之覚帳」に「金山之覚。一仙石原村之内公時石と申所也。右之通炭屋七兵衛去年堀候所也。」とあり、当時すでに「公時石」という形で公時伝説が根づいていたことが分かります。この文書が足柄地方に於いて金時公時に関わる最も古い記録です。

     1839年『新編相模国風土記稿』では「猪鼻岳、或いは公時山とも云伝う。・・・坂田公時が出し山なり・・山麓に彼が蹴落せしと云石あり。・・・石上に公時の祠を置」とあり、すでに現在の金時神社の奥の院の石祠が設けられていたのです。仙石原には宿り石・手毬石・蹴毬石・金時畑、姥子の湯などがあります。

  4.  長野県南木曽町読書の酒屋と蘭の足跡石
     中山道妻篭宿(南木曽町)周辺も公時誕生地と言われます。南木曽岳は別名金時山といい、読書(和合)には金時童子が酒を買いにきた酒屋、蘭(あららぎ)の金時童子の足跡石、産湯の池などがあります。(『小谷口碑集』)。「童子」との呼び名から中世的な古さを感じられます。

  5.  新潟県青海町上路(あげろ)の山姥の里
     北陸道の難所、親不知の山間にある「謡曲山姥」のひやくま山姥ゆかりの地が上路です。この曲は室町時代中期には成立していまして、金時は出てきません。しかし、何時からか山姥の子金時の玩具石や金時のぶらんこ藤、坂田峠などと名付けられた物が残っています。

  6.  長野県八坂村の上篭(あげろ)金時山付近
     『嫗(こもち)山姥』で怪童丸と源頼光が出会ったところです。しかし『北安曇群郷土誌稿』によると金時の母は紅葉鬼人いった赤い顔の女(大姥様)、父は有明山の七面大王となっています。大姥山は金時山ともいい、金熊川が流れます。中腹の金時山大姥神社の祭には雨が降り、女が足をいれると大荒れするといわれています。大姥山の西の大町市にある酒屋へも金時が酒を買いに行った所があります。

     八坂村の北東中条村には、大納言の娘沢潟(おもだか)姫が坂田時行に嫁ぎ、離縁して上篭山の岩穴で金太郎を生み,虫倉山で育てたと『長野市史民俗編』に書かれています。

  7.  他の生地と墓所
     金時・公時・金太郎の誕生地はこの近くだけでも、なお御殿場市沼田があり、さらに酒匂の郷士坂田時景の妻が小山町新柴の山中で怪童丸を生んでいます。(小山町新柴鈴木昌氏蔵)

     金時の墓所。『前太平記』の金時は、頼光の死後喪をすますと「寺の門外より、直に別れ出でて行く、・・・伊豆国足柄山にて、忽ちこれを見失ひしかば、谷嶺を分け、草木の蔭まで捜求めけれども、遂に跡を見せざりけり」となっています。

    しかし金時は、筑紫国へ出陣の途中、美作国勝田荘(岡山県勝央町勝間田)で、1110年12月15日に熱病のために55歳で死んだ(『作陽誌』)とも書かれています。金時塚の祠が現在は倶利伽藍権現=栗柄神社に祭られ「金時まつり」が行われています。

    また富山県『大沢野町誌』では、下夕村薄波に金時の墓があり、大沢野に子孫だと言う坂田氏が住んでいます。さらに兵庫県西宮市にも墓があるそうです。


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