ベトナムについてのもろもろの資料をあつかうページです。一部、私(ふるや)の備忘録もかねているところもあります。
1999年11月初旬に起きた中部地方の大洪水のニュースについてのリンク集です。洪水直後から2週間後までに見かけたWWWをリンクし、コメントをつけています。
2001年07月28日・29日
紹介・批評した本で気になったところに『女ふたりで丸かじり 生ベトナム』と『ヴェトナム100の素顔 もうひとつのガイドブック』をのせました。
2001年08月14日
紹介・批評した本で気になったところに『ベトナムの微笑み ハノイ暮らしはこんなにおもしろい』をのせました。
紹介や批評のなかでとりあげられなかったこと(こまごましたこと)をかきとめるためにつくりました。
つぶやきを別のページに移動しました。
大学や政府機関・NGO/NPO、あるいは、在野でベトナムについて研究をしている人たちが、すくなからずいるはずです。ですが、研究している方たちのWWWを見つけるのは意外なほどむつかしい。現段階では、WWWをもっている人がすくないという結論をださざるをえません。とくに日本語のものに話を限定すれば、おそろしいほどすくない(それとも、しらべる技術がひくいせいですかねえ?)。かれら/かのじょらはこういうかたちの情報のやりとりをそれほど必要とも重要だとも思っていないのではないかしら?
本の紹介・批評のなかでとりあげられなかったこと(とくにこまごましたこと)をかきとめるためにつくりました。
2001年08月14日に本の紹介・批評で紹介した
樋口健夫『ベトナムの微笑み ハノイ暮らしはこんなにおもしろい』平凡社 1999
で気になったところをぬきがきしてみます。
第1点め。ノイバイ空港の神戸市交通局のバスについてです。(このバス、現在(2001年8月現在)もつかわれているのでしょうか?)。
……飛行機から空港の建物までのバスは神戸市交通局の古いバスをそのまま使っていて、「次ぎの停留所で降りる方はボタンを押してください」と書かれたまま。ものは試し、押してみるとランプが点いた。神戸市交通局の古いバスは三台あって、そのうちの一台だけが、「次ぎ停車」のボタンが点くのだそうだ。
(p12)
第2点め。42ページの記述について。観光旅行がかんたんになるということはベトナムでの仕事がしやすくなっていることとおなじ方向性だという指摘があります。確かに。
第3点め。テトのときに訪問したズンさんという人のうちで、『驚いたのは、それらの六人の子供たちのほとんどが、お父さんと同じ公団で働いているということだった。四名が同じ公団で、もう一名が類似の職場。……』(p75)。ほとんど丸がかえですね。すごい。
第4点め。ベトナム人の女性をつぎのように書いています。
……日本の女性と違うところは、間違いを犯してしまった時、ベトナム女性は率直な謝り方に慣れていない。謝ることによって相手からの責任追及を停止する方法には長けていない。
謝り下手は、たぶん歴史的な違いから来ているのだろう。社会主義国では謝ってしまうことは、責任を認め、実質的な罰を受けることに合意したと理解するのだろうか。必死になって自己弁護をする。……
(p106)
指摘そのものは的を得ているとおもいますが、考察は疑問です。ベトナム社会は『謝ることによって相手からの責任追及を停止する』ような社会ではないから、(日本人から見て)ベトナム人(←べつに女性にかぎった話ではないでしょう。だからベトナム人と書きます)は率直にあやまらない(ことがおおい)ということではないでしょうか。
(歴史的と言いたいのなら、)歴史的といえるかもしれませんが、社会主義国うんぬん以前の、もっと根がふかい問題なのではないか、というのが私の推測するところです。社会主義国うんぬんを持ち出してくるのは、理解がややあさいようにおもいます(あるいは、私の理解こそあさいのかもしれませんが)。
(ご意見のある方、ご教示ください。)
第5点め。
『ベトナムでは、よほどの事がない限り、サラダは食べないことに決めた。消毒した自分の家の野菜サラダと、ハノイで一番有名なフランス料理店の取り放題サラダしか食べないことにした。』(p134)
ここでいう消毒とはどういうふうにやったのでしょうか。とても気になります。
つづけて、引用します。
『ハノイの水道がまた大問題になりつつある。フランスの植民地時代に工事された鉛管をまだ使っていて、もうぼろぼろになってしまっている。下水の設備も同様に老朽化しているから、水道水の破損部分、漏水部分から、外の生活汚水が入り込んでいるという。ベトナム人の家庭に招待されることはうれしいが、その時に出てくる料理が、ハノイの水道で洗い、料理されたものであることを考えると、いくら加熱されていても、多少食欲は落ちるというもの。』(p135)
こんなことを気にしていたら(ハノイで)食べるものあるのかな、という気がします。
ごはんを(日本製の)電気炊飯器で炊くとおいしいというような話も他の節には出てきて、あんにベトナムのごはんはあまりおいしくないと言っているようなものですね(という指摘をする私も、ベトナムのごはんはあまりおいしいとは感じませんが)。
では、これらの文章が載っている章は、何というみだしでしょうか?
「ベトナムは美味しい」です。ですから、おかしくなってしまいます。
どこが「ベトナムはおいしい」なのでしょう。この章、内容とみだしの不つりあいが不思議でした。
(163ページではハロン湾の海の幸をおいしいそうに食べているようすがえがかれているのです。もっと構成をくふうした方がよかったのでは?)
第6点め。カイ・タンという法事(p210-213)のことが書いてありました。死後3年、土葬した棺桶をほりだし、骨をひとつひとつ洗い骨壺に入れ、故人の生まれ故郷にもっていて埋葬するそうです。ほんとうなのでしょうか。びっくりしました。
12章の「ベトナムと戦争」はハイフォンに出張したときに部下とかわした会話がだらだらと3ページ以上もつづき、『……そしてベトナムとその周辺に、二度と戦争の悲劇が起こらないように祈っている』という一文で章を終えています。もっともなこととはいえ、この程度の会話のあとでこういう立派(そう)なことを言わなければいけないものなのかどうか、理解にくるしみました。1冊にするには原稿の分量がやや足りなかったため急遽つけくわえたのではないか、と推測しています。
おそらく一般的にいえることだとおもいますが、旅行記(や滞在記)というジャンルのなかで商社員の書いた現地レポートほどバカバカしい読みものはない(なかった)でしょう。大半は、まさに「行った、見た、帰ってきた」だけの読むに耐えない現地報告モドキか、どこかから持ってきた資料をほとんどまるうつししたような代物か、のどちらかです(でした)。
この本もよくある「商社員レポート」と同様の精神性にもとづいて書かれています。大名生活への自覚のなさも、会社の文脈をぬけでる努力のあとさえもうかがえないことも、おなじでしょう。とはいうものの、雲泥の差で読みごたえがありますし、たしかに新味を出しています。
この本に言及しているほかのページをリンクしておきます。ここやここ・ここ・ここ(←一言感想)・ここにありました(いずれも誉めている(だけの)もの、ほとんど参考にならなかったのでコメントしません)。
また、樋口さんはIBMの宣伝ページやわたしのカラオケ宣言に登場しています(「わたしのカラオケ宣言」は一見の価値あり!)。
ここには、
という記述があります。執筆は趣味ですか。趣味でしたら、デキに納得するしかない?批評はヤボだったかもしれません。会場では三井物産、カトマンズ事務所長、樋口氏にもお会いできました。氏から出版したばかりの「平凡社新書・ベトナムの微笑み」を頂戴。
樋口氏は執筆がご趣味とのことで、いままで何冊か出版されているご様子で駐在はベトナムの他にナイジェリア・サウジアラビアがあり、時期はラップしていないが私も駐在経験あるサウジの話もちょっとさせて頂いた。
2001年07月22日に本の紹介・批評で紹介した
文:池野佐知子/イラスト:池田須香子『女ふたりで丸かじり 生ベトナム』扶桑社
2000
で気になったところをぬきがきしてみます。
第1点め。「この本はこんなふうに読んでね」というところ、
「アジアは安いし、女王様気分が満喫できるって聞いたけど」という表現は露骨過ぎて、すごい(「わかりやすい」ともいえそうです)。なんていったって、女王様気分だもんね。○本当はハワイやヨーロッパなんかが好きだけど、でもアジアにも興味があって、アジアは安いし、女王様気分を満喫できるって聞いたけど、ホントなのかしら?って感じの人向けの本です。
バックパッカー的旅行をする人にはちょっと物足りないかも。○女のコが初めてベトナムへ行くなら、だんぜん南部のホーチミン、北部のハノイや中部のフエやリゾートもとーってもステキだけど、買い物、食事、ホテルを楽しみたいなら、最初はホーチミンがおすすめ、というわけで、この本の3分の2はホーチミンについてのお話です。
(以下略)
(p7)
第2点め。8ページから11ページまでのもくじを見てみましょう。凝った小みだしがならんでいます。「そして私たちは食獣になった」(本文はp94-95にあります)は、これまた露骨です(そもそも本の題名からしてそうですけれど)。
(よくかんがえてみると、買い物女王や買い物天国という表現もすごいですね。)
そのほか、「ベトナムの至福、スコールの優美」や「ヌクマムの魔法、チャインの洗練」、「陶器の奥行き、磁器のシック」などの「○○の△△、●●の▲▲」というパターン、だじゃれのつもりか「ジャングルぐるぐる」や「フルーツ山盛り、てんこ盛り!」なんてものもあります。
(この本のなかには、欲望まるだし系だけでなく、妙に情緒的かつ感傷的な(気分をイメージした)ところも混在しています。なかなか興味ぶかいです。)
第3点め。「アオザイをつくろう」(p26)では、からだのどの箇所を採寸するのか図解されています。参考になりました。
第4点め。ベトナム人のある一面がわかるようで、ここは感心しました。『市場で友達になったリンちゃんは言っていました。「最初の値切り方でこの人がバカか、バカじゃないかがわかる」って。』(p91)
(↑文章で感心したところはほとんどなかったのですが、ここは例外でした。ちなみに、イラストはけっこう感心したところがありました。)
第5点め。『……食べ物に性別があったら、絶対にライスペーパーは女だと思うのです。』(p98)?何のことやら?
第6点め。イラストページ「春巻き天国ベトナムの2大メジャー!!」の左のページです。101ページの左下のイラストに付いている『……クレープのように丸い鉄板でその場でつくられます……』という解説について。これとこれの横にあるイラストから判断しますと、「クレープのように」ではなく、蒸してつくられるもの(釜の下の方から蒸気があがってきて)のようにおもうのですけれど。ちがいますでしょうか?
第7点め。『……コーヒーフレーバーを選んだら、香りが高くて、甘さは控えめ。ちょっとクレバーな味で、1万5千ドンでした。』(p114,118)で「クレバーな味」とはどういう味なのかしら?
第8点め。「ビトロンの正しい(?)いただき方!」(p131)はおもしろい。こうやって食べるのですね。
2000年05月27日に本の紹介・批評で紹介した
東京農大国際食料情報研究所『ヴェトナム100の素顔 もうひとつのガイドブック』東京農業大学出版会
2001
で気になったところをぬきがきしてみます。
第1点め。「日本向け精米工場」(p38-39)という項目のところです。
日本向けにジャポニカ米をつくっているところがあるのですね。そのことにちょっとびっくりしました。しかし、関税をはらって採算がとれるのでしょうか。推測するに、ご苦労もおおいのでしょう。
ハノイに帰って精米工場を見た。……(中略)……作業員は少しずつ小山を切り崩しながら、何と手先で1粒1粒、米をより分けている。指先の動きを追いきれないほどの早業であるが、それにしても気の遠くなる話である。工場長は、最新鋭の精米機を導入すれば、こんな手作業は要らないが、このやり方の方がコストが低いだけでなく、労働力が創出できると得意気であった。
(p38)
うえに引用したところで、まず気になったこと。精米作業をしている人たちがどのくらいお給料(賃金)をもらっているか書いてありません。書いてあるとよかったのに、と感じます(聞かなかったのかな?)。
つぎです。このページに書いてあることだけから断定することはできませんけれど、工場長さんの言うことは低コストということに主眼が置かれているような気がします。最新鋭のものにかぎらず、使用に耐えうる機械を導入する方が安くつくと予想されたばあいには、(ほとんどためらわずに)機械を導入したのではないでしょうか。もしそうだとしますと、労働力の創出とやらのお題目は後付けの理由のようにおもえてきます。この項目を書いた人は、私がかんがえたようなことを意識していたのかしら?文面からは読みとることができません(でした)。
第2点め。「草はおいしい」(p58-59)です。小みだしからして変な感じがします。英語のサブタイトル"Weeds or Vegetable?"も変な感じです。この項目で言いたいことは「日本で食べないような草をベトナムでは薬に使っている、食べている」に尽きるのだとおもいますが。p58の右上の写真のキャプションは「ツボクサのジュース」とありますが、ツボクサのジュースがどれなのかがわからない(わかりにくい)。
第3点め。「はじめて見たクアガッ」(p61)のところ。ガッというのはお祝いのときに炊くもち米に色をつけるためにつかう植物の実だそうです。参考になりました。ただ、右下の写真のキャプションが無いのですが、これは何でしょうか。
第4点め。「有機野菜栽培」(p63)の冒頭の一文、『近年、ヴェトナムにおいてはクリーン野菜栽培が行われている。』とあります。あるにはあるのでしょうけれど、どれくらいの農家がそういう野菜栽培をおこなっているのでしょうか。
第5点め。p66の右下の小さめの写真についたキャプション:『皮ごと食べるのは?黒い皮のサトウキビ』。皮ごと食べませんって!皮はかたくて食べられません。
第6点め。p67の右下の小さめの写真のキャプション:『取引はすべて相対、セリはないが、”市場メカニズム”が動き出したマーケット』。「相対」ということばがおもしろかったです、レトロな感じで。いつごろのことばなのでしょうか。
第7点め。「国際婦人デーの花売り」(p133)で、
3月8日が国際婦人デーで、女性に花をプレゼントすることになっているという。尊敬する女性、世話になった女性、親しい女性にプレゼントするのだと思うが、バレンタインデーの逆で好きな女性にプレゼントしてもよいのだろうか。プレゼントしてもいいようですよ。
(p133)
編者の方から本をいただきました。ありがとうございます。
2000年02月20日に本の紹介・批評で紹介した
近藤 ナウ『アオザイ女房――ベトナム式女の生き方』 文化出版局1978
で気になったところをぬきがきしてみます。
第1点め。第2章の「ベトナム女房はカカア天下」というところですが、
もしかしたら、これはあまりにも皮相的な見かたかもわかりませんが、少なくとも私たちベトナム女房数人の共通した感想ですし、またこの大議論に出席していた唯一の日本人女房のY夫人も、とくに強硬な反論を展開しませんでしたから、あるていどは真実をついているのじゃないかな、と思います。そこで、独断と偏見をおそれずにいえば、と書いています。
「日本人の夫は、どうも妻をないがしろにしているように見える。そして、妻は妻で、『夫は無事で留守がいい』とばかりに、夫への心づかいがたりないように見える」
ということなんです。……(中略)……
夫の仕事に対する理解があまりにも深い(?)ためか、妻としての生活や時間を“夫の仕事”からまもろうとする努力を放棄しているみたい……。
もしかしたら、日本での社会生活の単位は“会社”とか“仕事仲間”であって、“夫婦”とか“家族”は二の次なんでしょうか。
……(中略)……
日本のご夫婦は、あまりにも“ベタベターッ”としなさすぎるみたい……。
“ベタベターッ”というのは、私たち夫婦の間でよく使う日本語(私と夫は、日常はフランス語らしきもので話し合っています)のひとつなんです。つまり、言葉やしぐさであらわす夫婦間の愛の表現のことをいいます。
(p94-97)
私なりにまとめてみます。
全般的にみて、日本人の夫妻は、夫は妻をないがしろにし、妻は夫への心づかいが足りないように見受けられる。たとえば、つぎのようなことがある。
「会社の帰りにお酒を飲んだり麻雀をするのは付き合いで仕事のうちだ」という夫の説明には、『ずいぶん奥さんを馬鹿にした話ですね』と言います。そして、帰宅時間の厳守を誓わせたことを述べています。近藤紘一のなかばやけっぱちの文句へは、『いくら働いていい仕事をしても、日本の会社では人の三倍も五倍もお給料がもらえるわけではないそうですから、私は夫が出世しなくても平気です』とのこと。
えらい。
第2点め。『サイゴンから来た妻と娘』を売ってこようとかんがえ、夫に「頼むからやめてくれ」と言われたそうです。
毎晩、新聞社から帰って来て、うんうんうなりながら原稿を書いている夫を見て来ましたから、いよいよ本が出版されて本屋さんの店先に並んだときいて、夫にいいました。紘一さんはあわて、わめき、どうしていけないのか説明したのですが、ナウさんを納得させることはできなかったみたいです。ナウさんが「銀座がダメなら浅草か上野に行って売るわ」と言ったもので、ゲンナリした顔で「頼むからやめてくれ」と嘆願したそうです。夫がそれほどまでに言うので、不本意ながらあきらめざるをえなかったと書いています。
「あの本、売れて、もうかったの?」
「お前、文藝春秋というのは日本でも有数の出版社なんだゾ。そんなところから本を出してもらえて、しかも、お前もよく知っている司馬遼太郎さんや偉い女性作家の曽野綾子さん、その他いろんな方たちから“よく書けている”とほめていただいた。オレは、それで大満足。カネだけの問題じゃない!」
「私、この本、ギンザにもって行って、“オモシロイヨ、ヤスイヨ”って売って来る。そうすれば、出版社も家ももうかるね」
そこへ娘のユンも、さすがベトナムの血をひいていて、 「ユン、学校でもう五冊売ってきたヨ」
と自慢顔で追いうちをかけたのです。(p171-172)
第3点め。
手づくりの第一歩は、その晩の材料にするトリやサカナをつぶすことからはじまります。(p202)と書いていること。巷にあふれるワンパターンなベトナム料理の解説本を見るにつけ、トリをしめるところから書き始めるなら多少はおもしろくはなるのに、と思います。日本の肉屋に対する評もおもしろい。『ままごとのように切り刻んで売ってい』るのだそうです。つぎのページにはカブトガニの(卵の)料理のしかたが書かれています。
第4点め。チャ(ー)ゾーというお米からつくった薄い皮で具を包んで揚げた料理があります。そのチャ(ー)ゾーがベトナム流(ベトナム風)春巻きと言われていることについて。
東京でもバンチャンが手に入った時、よくチャゾーを作ります。日本人のお客さんもたいてい喜んでくださいます。なかには、悪意ではなく「ベトナム流春巻きだな」などといわれる方もありますが、あんなザツな春巻きとくらべられては私の腕が泣いてしまいます。ボテッと皮が厚く、口にいれれば揚げて固くなった皮のなかからぐにゃぐにゃの油くさいタケノコなんかがはみ出してくる春巻きなんて、チャゾーにくらべたら品の悪いことおびただしい。春巻きはさんざんな言われようですね。文中のバンチャンはお米からつくった薄い皮です。チャゾーをつくるとき、春巻きの皮で代用しないようにとのアドバイスが最後にあります。(p211-212)
1999年11月07日に批評をのせた
玉木 明『「将軍」と呼ばれた男 戦争報道写真家・岡村昭彦の生涯』洋泉社1999
で気になったところをかきだしてみます。
第1点め。批評で書いたことのくりかえしになるのですが、写真や写真家に対する意見や感想のことばが少ないです。しかも、その少ない言及はもっぱら引用からえられたもので、自らのことばでかたろうとしていないように見受けられます。
第3章では、岡村昭彦をハルバースタムとくらべています。そのなかで、
「われわれは歴史の流れに逆らっている」という歴史的判断に立ったハルバースタムの報道は、アメリカの国民に大きな衝撃を与え、アメリカの茶の間にはじめて「血の色」をもち込んだ岡村昭彦の報道写真は、戦争という悲惨な現実を世界の人々に突きつけずにはおかなかった。(p114)と書いていることは、けっこうだとおもいます。
私は先の拙著(ふるや注:『言語としてのニュー・ジャーナリズム』)のなかで、日本においては「ハルバースタムの系譜に位置づけられるようなジャーナリストが一人もみつからない」と書いているが、それは明らかに事実の誤認である。そのように書いたのは、当時の私が岡村昭彦についてまったく無知であったからにほかならない。ここにあらためて訂正しておきたいと思う。岡村昭彦はまぎれもなくハルバースタムの系譜に位置するジャーナリスト、否、ハルバースタムと肩を並ベるジャーナリストといっておかなければならない。(p115)とまで言うのでしたら、(褒めるまえに)岡村氏の報道写真をどのように位置づけているのか、(玉木さんのことばで)きちんと説明してほしいです。
これをジャーナリズム史に置きなおしてみれば、これほど大きな足跡を残しえたジャーナリストを、私は岡村昭彦のほかに知らない。岡村昭彦のベトナム報道を見ただけでも、彼は日本のジャーナリズム史のなかで特筆されるべきジャーナリスト、戦後史のなかでもけっして忘れられてはならない人物であることが理解できるはずである。(p116)とありますが、残念ながら、理解できるようには書いてないように思います(すくなくとも、私はよく理解できませんでした)。
第2点め。
私が岡村昭彦の『従軍記』を読んで最初に思ったことは、これを映画化したら、あのデビット・リーン監督の名画「アラビアのロレンス」にも負けない感動巨編映画ができるにちがいないということであった。(p85)そうかなあ?!
第3点め。重複が気になります(←われながら、こまかい(^^;))。
堀田善衛が書いた(という)『南ヴェトナム従軍記』の書評(の一部)が(私が数えたかぎりで)3回も引用され取り上げられています。p37-38,p108,p227の3ヶ所です。ちなみに、p108はp37-38で引用したところの前半だけを引用、p227はp37-38で引用したところの後半だけを引用しているという違いはあります。
また、日高六郎が岡村昭彦におくった(とされる)『ジョン・リード、エドガー・スノー、ジョージ・オーウェル、ロバート・キャパ、バーチェットに匹敵するジャーナリスト』という賛辞は、p38,p42,p112の3ヶ所で引用されています。
第4点め。本多勝一のことを述べている章からの引用です。
はじめに、本多勝一についての私の個人的な印象をいっておけば、なまじ本多はベトナムなんかに出かけていくべきではなかったという思いが強い。彼がベトナム戦争にかかわりさえしなければ、私たちはもっと別の本多勝一に出会っていたかもしれないからだ。そして、彼の初期のルポルタージュの傑作、『極限の民族』三部作(『カナダ=エスキモー』、『ニューギニア高地人』、『アラビア遊牧民』)と並ぶ、彼の別のルポルタージュの傑作を読みえたかもしれない。そうすれば、本多勝一は岡村昭彦にも劣らぬジャーナリストとして、戦後史のなかに確固たる位置を占めていたかもしれない。そのことを思うと、いささかの口惜しさを覚える。少なくとも、私にはそのように思えてならない。(p118-119)『そうすれば、……』以降は同意できませんが、そのまえに書いてあることは、そうかもしれないとおもいます。
第5点め。開高健のことを述べている章から引用します。
開高の人生を一口でいってしまえば、戦後を「戦後的なるもの」に身を寄せて生き、ベトナムの戦地に行ってその限界を思い知らされ、そのような人生と訣別して「遊興の人」として人生を終えたということになろう。(p178)開高氏の書いた本をそれほど読んでいないため、この指摘が当たっているかどうかは判断できません。
第6点め。
手がかりになるのは、彼が命をかけて撮りつづけてきた多くの報道写真と彼が生前に発表した膨大な量の著作類だけである。それらのなかにだけは、彼の偽らざる足跡が刻印されているはずだからである。したがって、岡本昭彦という謎がどこまで解けるかは、それらを彼の年譜と重ねて、どこまで読み込めるかにかかっているといっていい。岡村昭彦を知っている人たちに会って話をきくという手法も取れたでしょうに、なぜそうしなかったのか、よくわかりませんでした。……(中略)……
したがって、ここでどのような岡村昭彦像が示されることになるにしても、それはあくまでも彼の年譜と彼が残した多くの著作類から抽出されたかぎりでの岡村昭彦像、再構成されたかぎりでの岡村昭彦像、したがって肉体をもたない岡村昭彦像だということになる。が、それがいささかでも、実際の岡村昭彦の魅力を減じてしまうことになるとは思われない。(p19-20)
この本に言及しているほかのページを挙げておきましょう。
テレビキュメンタリーの現場にいる是枝裕和さんという方が書かれた書評があります。
この本は岡村昭彦というひとりの写真家について書かれたもの だが、彼が撮った写真は一枚も掲載されていない。彼が撮った写 真についての記述も極めて少ない。ここで問題にされているのは 写真以前である。つまり岡村がどのような写真を撮ったかではな く、どのように被写体となる状況や対象と向き合い関わろうとしたかというその姿勢が問題とされている。の前半部分はその通りです。後半の『ここで問題にされているのは……』以降は、よほどの善意をもって読まなければ、こういうふうには読むことはできないとおもいます。
Vietnam ReviewのBack Issuesに紹介されています。
岡村氏が弾圧に抗議する仏教徒を取材していて秘密警察に逮捕されたとき、他の外国人記者らが力づくで彼を奪い返してしまう。記者たちは「おれたちはジャーナリストなんだぞ! こんなことで逮捕されてたまるか!」と主張する。このようなエピソードを紹介しており、ベトナム本というより、一報道写真家の生きざまとジャーナリズムのあり方を論じた書と言った方が適切かもしれないが、「ベトナムと関わる日本人」の際だった一例である。だそうです。
『「将軍」と呼ばれた男』著:玉木明という書評があります。
ベトナム戦争の報道写真で「第2のキャパが生まれた」と絶賛され、「南ヴェトナム戦争従軍記」で圧倒的評価を得た岡村昭彦。うーん?!
彼に続いて開高健、本多勝一もベトナム特派員を志願、それぞ れの仕方でベトナム戦争をリポートした。開高は岡村のことを「将軍」と呼んだが、本書の著者は「日本の戦後が生んだ屈指の快男児、怪人物」「一種の辻説法師」と評する。
本書はその岡村の出自から死までをたどりスケールの大きい生 き方の根源に迫る評伝。
聖教新聞「メディアのページ」というところに玉木さんご自身が書かれたらしい“戦後史の逆説”を生きたジャーナリスト・岡村昭彦という小論文があります。
購入を考えている方は、洋泉社ノンフィクションへ。
2000年05月10日
追記
本多や開高の 「私」という立場を批判しているわけでは決してないということです。むしろ、彼らの限界は「私」という立場に徹しきれなかったところにあり、また、岡村の問題とは「公」と「私」を繋ぐ回路を見つけ出 すことが出来なかったところにあると著者は指摘しています。と内容をまとめています。
玉木氏の言いたいことを手短にまとめているとおもいます。ただ、後半の『岡村の問題とは……』のところで、岡村氏は『「公」の側に足をかけた生き方』をつらぬいた、と玉木氏が書いていることにも言及する方が、読んでいない人に多少は配慮することができていいでしょう。
うえに引用したところ、ただ著者の言う通りにまとめているだけである、とも言えます。ここの個所に注目する人がなぜ疑問をいだかないのか、私には不思議です。
理由をかんたんに述べましょう。
そもそも、玉木氏が「公」と「私」という視点を用意して言いたいであろうこと以前に問題があるのだ、と(私は)かんがえます。このような2分法的なとらえかたで人間をどちらかに帰属するものだと判定し、単純化した視点ではとうていとらえられないであろうかれらの資質までをも裁断してしまっていいのかどうか……。という点がもっともおおきい疑問です(すくなくとも、私にとっては)。
1999年10月17日に紹介した石井 米雄監修/桜井由躬雄・桃木至朗編『ベトナムの事典』同朋舎 1999
で気になったところを(ごく一部ですが)かきだしてみます。
1つめ。重枝 豊さんが書いたコラム「チャンパ遺跡を歩く ミーソン遺跡調査の体験」(p208)に、
各地の遺跡に泊まって実測作業をしていると、この4、5年観光客が驚くほど増加したことに気づく。外国人だけでなくハノイやホーチミンからの国内観光客も多く、ピクニック気分でやってくる。(p208)と書いてありました。
上に引用した文章につづいて、
ベトナムの人々にチャンパ遺跡の大切さを認知してもらうことはうれしいが、あちこちにゴミをまき散らしても何の罪悪感もないことには閉口する。管理を担当するスタッフにゴミを拾うように頼んでも、しばらくすれば腐ってしまうから問題ないという返事が返ってくる。省の遺跡管理者にも同様な発想があり、そんなにゴミが気になるのなら日本の援助でゴミ箱をつくってほしいとせがまれる。(p208)という文章があって、苦笑せざるをえませんでした。
同コラムには、つぎのような文章もあって、ずいぶんと「頼もしい」管理スタッフがいることだなあと感じました。
現在ミーソン遺跡には管理のために6人の村人が雇われいる。管理スタッフのトゥー氏は従軍中に10人のアメリカ兵を殺したという「つわもの」。右足の甲に銃3弾の貫通した跡がいまも残る。寝食を共にすればそうでもないが、彼と面識のない人が山道で偶然出くわせば、その精悍な容姿と骨格の整った肉体に圧倒される。さらに彼は実弾を装着したM16ライフルを片時も離さず持ち歩いている。彼に限らず村人の多くが山刀やライフルを護身用というよりも男の象徴として持ち歩いてる。(p208)
2つめ。日本人渡航者数と日本への正規入国者数から、日本からベトナムへ行った人の数とベトナムから日本へ来た人の数が、だいたいですが、わかります(p395)。表1はベトナムへの日本人渡航者数、表2はベトナム人の日本への正規入国者数です(1993年〜1997年の)。
(↑ 引用したデータは『出入国管理統計年報』より作成されているそうですので、ここに挙げた数字は孫引き(つまり、引用したものをさらに引用したもの)です。)(石井 米雄監修/桜井由躬雄・桃木至朗編『ベトナムの事典』同朋舎 1999のp395より)
表1 ベトナムへの日本人渡航者数 年 人数 1993 17054 1994 31406 1995 69224 1996 83221 1997 83999
表2 ベトナム人の日本への正規入国者数 年 人数 1993 4616 1994 5789 1995 7868 1996 9473 1997 10753
気になっているところは、まだまだたくさんあるのです。ですが、とりあえず、2点だけにしておきます。
1999年10月25日に批評をのせた
金 忠男・吉原 忍・野田 孝人『メコンデルタ単身赴任記』鳥影社1999
で気になったところをかきだしてみます。
第1点め。稲研究所のゲストハウス(カントー市から30キロメートルほど離れているそうです)に滞在していたときのこと。日本風のカレーをつくり冷ますために放っておいたところ、アリにたかられて泣く泣く処分したという事件が書かれています(p60-62)。
そのすぐあとに、
いつぞやは、パンツの中に侵入され、鋭敏な箇所が大きく腫れ上がったものだから、一時は深刻に悪い病気ではないかと悩んだほどである。(p62)ということなども書いています。アリのほかには、トカゲ・ゴキブリ・ネズミ・カエル・コオロギ・蛇・アヒル・コウモリがゲストとしていらっしゃったそうです。
第2点め。カラスがいないわけは、このように書かれています。
実はベトナム戦争を境としてカラスがいなくなってしまったというのである。カラスは毎日のように落とされる爆弾や枯葉剤を浴びて、疎開を決意したらしい。……(中略)……実際、二十歳前後の人はカラスを見たことがなく、三十歳以上の人では子供の頃には見たという返事が返ってくる。(p77-78)
第3点め。ノクスンホテルについての記述は5ページ強あります(p79-84)。最後の一段落だけ引用しておきます。
二年間過ごしたノクスンホテル。いろいろあったものの、思い出のホテル、ああノクスン、されどノクスンである。(p84)
第4点め。著者(のひとり)はこういう体験をしたそうです。
知人が気に入った古い時計を長時間かけて交渉し、やっと五十ドルまで値切って手に入れた。何と、言い値の半額である。私はそのような物に興味は無かったが、店員がお前も買えとしつこく迫ってくるので、知人の反応を見るのも面白いと思い、試しに「二十五ドル」と言ってみた。ところが、何としたことか即座に「二十五ドル、OK」で手打ちとなってしまった。当然のことながら、おさまらないのは知人である。必死の形相で店員に抗議するが、この種の抗議には手慣れたものであった。曰く、「あなたはお金持ちで五十ドルでも買えそうに見えたけど、この人はあなたより貧乏でお金がなさそうだから」(p139)
第5点め。『大型充電器を使えば、夜間の照明とテレビを見るだけなら一週間は大丈夫である。』(p52)
第6点め。氷についての記述がp167-170にあります。運搬車がはこんでいる氷柱約50キログラムで14000〜20000Dなのだそうです(小分けにした氷はもっと高い)。
著者たちがかかわった研究が農水省のWWWにのっていました。リンクしておきます。
鳥影社コーナー(出版案内)には、『四〜五十年前の日本の姿と現代が同居しているようなスリリングな日常。』と紹介されています。
1999年10月17日に批評をのせた
チャン=キィ=フォン・重枝 豊『チャンパ遺跡』連合出版1997
で気になったところをかきだしてみます。
第1点め。ミソンの遺跡に名づけられたA〜Hのゆらいが書いてありました。
ミソンに残る遺構は、フランス極東学院の研究者たちによって先鞭が付けられたが、彼らは建物それぞれに、アルファベットの固有番号を付けている。現在、我々がいる場所がB、C、Dグループと呼ばれ、向こうの丘に見えるのがAグループと名付けられている。そのグループ中の建物それぞれに、また一つ一つの番号がある。 (p22)
第2点め。ベト民族(キン民族)はどのくらい関心をもっているのかしら?
最近、このチャンパ王国の歴史的研究が注目されている。ドイモイという経済開放政策をとっているベトナムでは、外国から経済だけでなく文化的刺激も受けている。ベトナムを訪れる外国人の指摘によって、これまで見捨てられてきた文化の再認識が始まったといえる。(p30)という記述や
この遺跡(ふるや注:ポー・ナガル遺跡)のみどころの一つは、主祠堂の内部にのこされている一一世紀半ばに再造されたポー・ナガルを祭った神像である。線香の煙で充満した堂内には、10本の腕を持って台座の上に足を組んで座わり着飾った姿が見える。顔はベト族(越人)風に彩色されているが、本来は祭りに際して天然の材料で飾られ、祭りが終わると洗い流された。チャンパ遺跡の多くはベト族から見捨てられ、彫像のほとんどは博物館に収蔵され、遺跡はほとんど無人である。しかし、この寺院では北部ベトナムと結び付くことによって、辛うじて過去とつながっている。(p156)という記述があります。ですから、ベト(キン)民族はあまり関心をもっていないのではないかと想像していました。
第2点めについて補足します。
石井 米雄監修/桜井由躬雄・桃木至朗編『ベトナムの事典』同朋舎 1999
という事典に、重枝 豊さんの書いた「チャンパ遺跡を歩く ミーソン遺跡調査の体験」(p208)というコラムがあります。それによりますと、
各地の遺跡に泊まって実測作業をしていると、この4、5年観光客が驚くほど増加したことに気づく。外国人だけでなくハノイやホーチミンからの国内観光客も多く、ピクニック気分でやってくる。のだそうです。
1999年10月10日に批評をのせた
クレア=エリス著/増永 豪男訳『カルチャーショック07 ヴェトナム』河出書房新社1998
で気になったところをぬきがきしてコメントをつけておきます。どうでもいいことがおおいです。
第1点め。くりかえしになります。第1章のはじめの方で、
中国、ラオス、カンボジアと国境を接し、東アジアの中央という地理的位置が、戦争に引き裂かれるヴェトナムの歴史を描いてきた。(p13)または、第2章のはじめの方で、
平和が続いた期間がほとんどなく、その少ない平和な時期さえ、ヴェトナムは他国の影響下にあった。それはこの国がインドシナ半島にあり、東アジアの中心にあるという地理的条件のゆえである。(p41)と書いてあります。よくわからないです。
第2点め。第8章のp225で、
一〇世紀の北ヴェトナムへのモンゴル人の侵寇は、「フォーボー」(牛肉入りそば)や「ボーバイモン」(七通りの調理法による牛肉料理)のような肉料理をメニューに加えた。というところは、本当なのかしら?
仏教の伝来は、ヴェトナム料理における転換点ともなった。僧侶や尼僧は肉を食べず、信者も定められた日には肉食を絶つ。この習慣が変化に富んだ菜食料理を生みだした。とありますから(つまり、仏教の信者といえども定められた日以外は肉食をしていると推測してもいいと思います)、肉をつかった料理で牛肉の料理はモンゴル人の影響だと言いたいようなのですが。
第3点め。用語の不統一。
第1章のp19では『ヴェトコン』という用語がことわりなく使用されています。
p55で「南ヴェトナム民族解放戦線」(「」付き)ということばの注釈(日本語版で追加されているもの)に、「……」はヴェトコンの略称だと説明されています。注釈ごと引用しておきます。
p57ではヴェトコンという用語を使用せず、南ヴェトナム解放戦線を「」をつけずにそのままつかっています。
- 「南ヴェトナム民族解放戦線」
- 〔「ヴェトコン」と略称。ただし、この略称は、南ヴェトナムの指導者たちが北ヴェトナムのコミュニストをさすために使用した用語なので、現在、ヴェトナム人どうしのあいだでは使われない〕
第4点め。p72の『ホア人〔現在の中国系住民〕』というのは、おそらく華人のことでしょう。「ホア(hoa)」というのには「花」や「華」という字を当てるのがふつうです。
と書いたところで、なんとなく『東南アジアを知るシリーズ ベトナムの辞典』を見ました。「ホア族」(p310)ということばがのっていて、ちょっとびっくりしました。
第5点め。p196〜197の「楽しい暇つぶし」という写真のなかで、『路地のカフェではヴェトナム将棋で遊ぶ人たちをよく見かける。』と説明されているものは、おそらく中国(伝来の)の将棋でしょう。ヴェトナム固有のものとは考えにくいです。
ついでに、その下の『ニャチャンの市場で、トランプを楽しむ女性たち。』とあります。この写真の場合はわかりませんが、トランプをするときにお金をかけているのをよく見かけます。
第6点め。気になる第8章のp224の注釈。引用します。
〔しかし通常のヴェトナム料理では油がたっぷり使われている。そして同じ油を何回も繰り返し使うため酸化しており、たいていの外国人はこれでお腹をこわす〕
第7点め。第8章のp242に
外国人の場合は、メニューを指でさす(発音しようとしないこと)、材料の変更などは求めない、注文は変更しない、何が出てきても黙って食べる、「勘定は別々にして」などと頼まない、というのが最善の方法。こうすれば、口論ひとつせずに食事が楽しめる。とあります。傲慢(ごうまん)な態度をとる人に対して、このように言うことによって、いましめているのだろうと想像するのですけれども。
産經新聞社のWWWで紹介されていました。ほめすぎではないのかなあ?
1999年11月01日
追記
チャン(陳)が君主になった王朝は1225年に建った「チャン朝」で実にモンゴルのフビライ・ハーンの遠征軍を3度も打ち破ったと書いてあります。
しかし、このチャン朝も1400年ホー(胡)朝にその座を奪われたとあります。その後1428年まで中国に支配され、ベトナムの自立を回復したのは明を破ったレ・ロイです。つまり紀元前2世紀からこの時期まで中国に支配されていたのです。ハイバーチュン(チュン姉妹)は中国の悪政に怒ったチュン・チャクとチュン・ニの姉妹が紀元40年に反乱を起こしベトナム北部に3年間続いたそうで、チュン姉妹の名は反外国支配闘争の最初のヒロインとして記憶されました。ハノイとホーチミンのメインストリートはハイバーチュン通りと名づけられ、また北部には姉妹を記念して建てられた寺院が2つ有ります。以上「カルチャーショック07・ベトナム人」河出書房新社発行よりでした。